Now Loading...

2013年9月30日月曜日

泣くということ

 悲しいことがあって泣いた。泣きながら、「泣くこと」について考えた。
 実は私は、かなり涙もろい。テレビや映画を見て泣き、本やマンガを読んで泣き、己の不甲斐なさに泣く。ただし一人か、せいぜい家族の前で。さすがに人前では制御する。皆さまと同じように。

 以前から仕事柄、家に一人きりでいることが多かった。感情が動いても、受け止めてくれる他者はいない。激昂しようが号泣しようが誰も慰めたり共感してはくれないが、変な目で見られることもない。
 そのせいか、家では安心して(というのも変だけど)泣くクセがついてしまったのかもしれない。

 「できなくてもいいけど、泣いちゃダメだよ」。最近、私が息子によく言う台詞だ。叱られてもいないのに、着替えがうまくできないと言っては泣き、ブロックが上手に外せないと言っては泣く息子は、どちらかといえば泣き虫かなあ、と思う。
 でも、どうして「泣いちゃダメ」なんだろう。どうして私は息子に「泣いちゃダメ」と言うのだろう。自分が泣きながら、そんな疑問が湧いてくる。

 そのとき家には家族がいた。彼らは「悲しいこと」には無関係で、理由が分からず戸惑っている様子だった。泣きながらも様々な感情に襲われる。私は何かを求めているんだろうか。慰めてほしいのか、放っておいてほしいのか。それは、甘えではないのか。
 家族を戸惑わせて泣き続けるのは、気持ちのいいものではない。でも涙が止まらない。申し訳ないと思いつつ、この場で流してしまわなければいけない感情があるのだろうな、と思ったりする。
 話はそれるが、少し前に「涙活」という言葉を聞いて、ひっくり返った私である。いまは泣くにも「活動」が必要らしい。泣ける本などで意識的に涙を流してスッキリ、ということらしいが、それなら私は『ガラスの仮面』の、主人公マヤの母親が亡くなるシーンが鉄板だ。展開も全部覚えているのに、何度読んでも号泣する。特にスッキリはしないけど。

 私に「(泣くことで)その場で流したい感情」があるのなら、息子にだってあるはずだ。小さな身体で泣き続けるのは体力も相当に消耗するはずで、それでも泣き止めない何かが、彼の中にもあるのだ。たとえ、外からはまったく理解不能だったとしても。
 泣くのは幼いし、恥ずかしいし、うるさい。男の子だし、感情を制御することも覚えてほしい。そんな思いもあって、つい「泣くな」と口にしてしまう。
 でも「泣くのは赤ちゃんだからね」と言いながら歯を食いしばる息子を見ると、「泣いてもいいよ」と言ってあげられる場面だってあるのではと、少し反省する私である。母ちゃんも泣き止めないんじゃねえ。そりゃボクにはムリだよねえ……。

2013年9月27日金曜日

子役の条件

 ずいぶん前にほんの一時期、子ども向け映像作品の制作現場に関わっていたことがある。そのときに感じたのは、子役とは「大人の思惑通りに行動できる」ことがすべてなのだな、ということだった。

 ある女の子は当時6歳だったが、小柄で4〜5歳に見えた。この年頃で1〜2歳の違いは大きい。大人のコントロールが利きやすい6歳でありながら、4歳としても撮影できる。これは有利である。
 ハーフでも派手な美貌の持ち主でもない、どこにでもいそうな普通の女の子。実はかなりの売れっ子で、すでにTVドラマに何本も出演実績があったが、その仕事ぶりを見れば理由は明らかだった。

 現場では母親が素早くヘアメイクを整える。撮影で使う歌や振り付けは事前に完璧に覚えており、待ち時間は母子で振り付けの確認。一見おとなしいが、撮影では強烈なライト&大勢の大人たちの視線を浴びても臆せず堂々と踊り、愛らしい笑顔を見せる。
 見た目は幼くても、むしろ実年齢以上に聡明なのが見て取れた。おそらくどんな現場でも、求められた演技ができたであろうことは想像に難くない。

 同じ現場にいた4歳の男の子。ちょっと人目を引く可愛さだったが、仕事は初めてだった。歌や振り付けは「一応、聴いてきた(by 母)」。まあ、振り付け担当の方がちゃんとフォローはしてくれる。
 待ち時間は母子で周囲をキョロキョロ。案の定、子どもは撮影途中に怖がって逃げてしまった。4歳なら本来、そんなもんではある。翌日の屋外ロケでは慣れたのか元気な笑顔を見せてくれた。「登録しても仕事が来ない」と母親はグチっていたが、もしかするとその後は増えたかもしれない。

 子どもというのは親にこそ、最高の笑顔を見せる。だから「ウチの子は可愛いから子役に!」というだけでは、少し心許ないかもしれない。
 私のささやかな経験からすると、幼く見えて実は賢くて、記憶力も運動神経も良くて人見知りせず度胸もあって、大人の指示通りパッと動けるから子役に、ならイケるかも。てか、そんな子いたら私が売り込みに行きます。キックバックは相談で(笑)。
 ただ、そんな本格的じゃなくて、ちょっと記念に、という方も多いし、そうした方に適した現場もあるだろう。野暮いうつもりはないっす。古い話だしね。

 何にしろ、カメラの前で笑えなければ子役もモデルも無理であるが、息子はその点で絶望的である。
 園で撮る集合写真は、ほぼ毎回ソッポを向いている。笑うどころかギョロ目で睨み上げる。常に完璧な笑顔で写真に納まる子(大抵は女の子)もいることを思えば、適性のなさは歴然である。親が撮れば少しはマシなんだが、こればっかりはねえ(涙)。

2013年9月26日木曜日

才能

「才能がある」という言葉ほど
人を傷つけるものはないのです
「才能がある」と言われて命を絶った人すら
思い当たるほどに

社交辞令なのか
異物排除なのか
揶揄なのか
いっそ詐欺なのか

「才能がある」という言葉を
素直に聞けるのは子どもだけ
彼らとて そのうち気づくでしょう
自覚なく吐かれるその言葉は
空虚でカタチがなく
手触りもぬくもりもなく
輝きも錯覚でしかなく
ただ 人生にのしかかる重みだけがあることに

「才能がない」と言われるよりマシだと
喜べばいいのか
むしろ凡庸さに
打ちのめされればいいのか
誰もが持てるものだけを手に
必死でやっていくしかないのに
人を羨むのは心地いいのですか
本当に「才能がある人」には
どんな言葉をかけるのですか

私にはそんなものはありません
だから今日も何とか生きています
ああよかった


2013年9月25日水曜日

はざまの世界で

 台所でアイスクリームを食べていると、息子がトコトコ近づいてきた。「ぼくもアイスたべたい」。まだ二歳くらいの頃だ。困った私は、とっさに冷蔵庫に貼り付いていた、ソフトクリーム型のマグネットを差し出した。「はい、どうぞ」。
 「わあ」。目を輝かせて受け取る息子。「むしゃむしゃ、おいしいね」。マグネットを口元に当て、うれしそうに食べる「マネ」をする息子。やれやれと安堵しつつ、うむむ、と唸ってしまう母。

 考えてみると不思議だ。渡されたのは偽物だと、息子は理解したはずなのだ。なぜなら、彼がしたのは食べる「マネ」だから。もし虚実の区別がつかない赤ん坊なら、実際に口へ入れてしまうはずである。
 偽物だと知った彼は、しかしそこで「怒る」「偽物だと主張する」等の行動には出なかった。食べるマネをして「おいしいね」と笑ってみせたのである。
 アイスを食べる母を見て、自分も食べたいと願った息子。しかしその願いを叶えるのは「マネ」という架空の世界でもよかったのだ。少なくともこの瞬間、彼にとって、そこに大きな違いはなかったのだ。
 当時の彼の住む世界が垣間見えた気がして、何だか不思議な気分になった。実際にはアイス云々より、ただ母と対話がしたかっただけかもしれないけど。

 こんな場面に接すると、私はウィニコットの中間領域(intermediate area)という言葉を思い出す。
 中間とは、外的現実と「内なる現実」の間であり、双方が交わる場所だ。子どもはこの「空間」で遊ぶ。ここでは何だってできる。ぬいぐるみを相棒に世界征服もできるし、宝石で着飾ったお姫様にもなれる。
 空想遊びにも思えるが、目に見えるもの、手に触れるものはすべて現実世界の所属物である。ご存知の方も多いだろう「ライナスの毛布」(肌身離さず持ち歩く、愛着の対象物)も、この領域に属するとされる。子どもが母から心理的自立を果たすのに、重要な役割を担う空間だという。
 息子がアイスを食べたのも、中間領域の範疇なのか。そんなことを考える、結構面倒くさい母である。

 先日、ポストに高級マンションのチラシが入っていた。その豪華すぎる間取りに夢中になる私と相方。「ここが私の部屋で、子ども部屋はここー」「え、俺は?」「なになに〜」。息子も会話に入ってくる。
 「居間が広いから、おともだち沢山呼べるね。あ、庭があるからプールできるよ」「プール!?」「きっと地面から、使うときだけプールがグーンって上がってくるんだよ」「あはは、まじでー」。完全に悪ノリする夫婦。「プール!」とはしゃぐ息子。大きな過ちを犯していることに、気づいていない私たち。

 そして翌日から「こないだ決めたぼくの部屋、いつ行く?」「ぼく、おともだち沢山呼びたい」「庭でプールがグーンって上がるとこ行きたい」攻撃に苛まれる私(←アホ)。いや、あれは単なる妄想というか、やっぱ現実もそれなりには理解してほしいというか、あの、甲斐性のない親ですいません……。

2013年9月24日火曜日

ぶきっちょさんに捧ぐ

 車の設計をしていた私の父はとても手先が器用で、子どもの頃は居間に父の製作したプラモデルの戦闘機がズラリと飾ってあった。どれも父の手で丁寧に彩色まで施された、それは見事な出来映えだった。
 ところで、私は不器用である。顔は父に似たが、器用さは似なかった。まったく遺伝は意地が悪い。

 服以外にも、ちまちま小物や雑貨を作るのが好きな私(「手順どおり作り上げる」のが好きなのであって、クリエイティビティはあまりない)だが、こういう人は一般には器用だと思われることが多い。まあ、そこは音痴なカラオケ好きがいるように「不器用な手芸好き」もいる、と了解いただくしかない。
 ちなみに子ども服は、ぶきっちょさんでも比較的入りやすい分野だ。縫う距離が少ないから失敗もリカバリーしやすい。自分の子に着せるなら多少ヘンでもいいし(←ヒドイ)。どうせ数年しか着ないし。

 そんなこんなで服作りは何とか楽しんでいるが、実はこの秋の連休に「レースを編んで作るアクセサリーキット」に挑戦し、大変な目に遭った私である。
 必要な資材がセットになった「キット」は便利で魅力的だが、パッケージ写真のように素敵な作品が自分にも作れるのでは、と錯覚(!)しがちという落とし穴がある。もちろん普通の方、器用な方には錯覚ではないと思われるが、特に繊細なアクセサリーなどをパッケージどおり再現するのは、ぶきっちょさんには難しい。早い話が、技術が要るのだ。
 以前に羊毛フェルトにトライしたときも、パッケージには愛らしいマスコット、手元にはいびつなカタマリ。ナゼ? 何が違うの? ウデ?(涙)。

 製作時間は約3時間とあったが、基本の編み方を理解するだけで数時間かかる。手順通り進めているのに、どうも見本写真と違う。編み目が不揃いでヘタなせいかと思ったら、目の数え方を間違えていた。
 だから編み物は(涙)。いや、これとて一般に流通している商品だ、普通に作ればできるはず、と必死で糸と格闘し、何とか編み上げて、よし、仕上げにアイロンを、と思って眺めたら、繋ぐ箇所を間違えてモチーフがひん曲がっていた。ちょっと泣いた。

 最近は私も「不器用というより、単にボケ……注意力が足りないのでは」と薄々気づいているが、しかし注意力もまた「器用さ」の表れだと思ったり。
 器用に見える人は、そうでない人にはなかなか到達できないレベルまで神経を行き渡らせる。その積み重ねが、美しい作品を生む。それもまた才能なのだと羨望を込めて思う、ぶきっちょな私である。
 小さなブロックを指先で扱う息子を見るにつけ、父の器用さが遺伝してるといいなあ、とムシのいいことをつい願う母である。けっこう器用そうに見えるんですけどね。親バカですかねやっぱ……。

2013年9月20日金曜日

天上の庭

良いとか悪いとか そんな場所じゃない
うれしい悲しい そんな場所にはいない

吹き荒れる感情も痛みも
みんな悪いもののしわざ
すぐに消えてしまうよ

絶望のなか昇っていく 小さなたましいを
この世では救えない 小さなたましいを
想う

天上の庭
すべての母に
抱かれて眠る
小さなきみを
想う

届いてほしいなんて 無理は言わない
きみのいた世界に 敬意を払いたい

愛されていないものは
生まれてくることはできない
たとえ一瞬だとしても

暗闇を昇っていく 小さなたましいに
この世では救えない 小さなたましいに
想う

天上の庭
すべての母の
祈りが満ちる
小さなきみを
包むように

絶望のなか昇っていく 小さなたましいを
この世では救えない 小さなたましいを

とこしえのやすらぎを
終わりのない幸福を生きる
小さなきみを
想う

2013年9月19日木曜日

それは美学です

 最近、自分で着替えができるようになった息子。得意気に着替えるが、まだ親の手が必要なことも多い。「ほら、Tシャツの裾がズボンの中に入ってる。出さないと」「でも、おなかが冷えちゃうよ?」。
 実に正しい疑問を発する息子。大丈夫だよ、まだ暑いし。というか、それより大事なことがあるだろう、と口を開く私。「だって、カッコ悪いじゃん」。

 それ以来、「Tシャツはズボンから出さないと、カッコわるいからね」と復唱しながら着替えるようになった息子である。何だか世間様の視線が冷たい気がするが、だってカッコ悪いんだもん。寒くなったら「下着はズボンの中!」と教えればいいし。
 ちなみに息子、お風呂上がりには「髪の毛ときときして〜」とねだることもある。めんどくせー、と思いつつブラシで梳かしてやる母(←ヒドイ)。女の子はきっともっと大変なんでしょうねえ……。

 まあ、その大変さも、服を着せたり髪を整えたりするたびに「わあ、カワイイ〜」なんて言い続けてきたことを思えば、ある意味で当然の帰結ではある。
 その「カワイイ〜」の中には、「だから大人しくしてて」とか「それ安いんで買っときたいからよろしく」とか「もう諦めて帽子かぶってくれ頼むから」とか、いろんな下心が入っていたりするわけだが、一方で子どもの側にも「どんなときにカワイイと言われるか」という経験則が蓄積されるに違いない。
 それが子ども自身の美意識や価値観の形成につながると思うと、やっぱ親の影響って良くも悪くも大きい。ちょっとコワイ。とゆうか自信ない(笑)。

 美的センスはともかく、世の中には「善か悪か」「正か誤か」「好きか嫌いか」といった基準のほかに、「カッコいいか、カッコ悪いか」という判断基準がある。「美しいか醜悪か」と言い換えてもいい。
 弱いものイジメは「するべきじゃない」と同時に「カッコ悪い」。公の場で騒ぐのもカッコ悪いし、困難や面倒から逃げるのもカッコ悪い。倫理やモラルは外的基準だけど、自分なりの「カッコよさ、美しさ」すなわち「美学」は、自分の中に持つ基準だ。
 何を美しいと感じるかは人それぞれだけど、正しく美しい「美学」は、選択に迷ったときの重要な指針、支えになる。自分の信じた美しさを、貫ける人間であってほしいと思う。もちろん私自身も。

 身だしなみとしての「カッコ良さ」も大切だけどね。相方は若い頃、ヒゲ面で帰省して、驚いた義母に「家から一歩も出るな!」と厳命されたそうな。
 まあ自分を省みても、親には理解できない格好をするもんですよね子どもって。もし息子が将来「シャツはイン!」「上着は肩掛け」「靴は素足に!」と、どこかの俳優さんのような美学を持つようになっても、甘んじて受け入れるよう努力します……。

2013年9月18日水曜日

最低の笑顔

わだかまりは
昨夜に置いてきた
つもりだった

寂しさなら
いつでも抱えてる
けど黙ってる

残酷なニュースに怯える君を
抱きしめてあげられるのは誰?

くだらなくていい
苦しまなくていい
君を近くに感じているよ
最低の夜に
最低の笑顔
それでいい

悔やんだ景色は
昨日へと走り出してる
明日が見えるよ

もがいてみても
絡めとられてゆく
ときがある

いっそあふれて
しまえばいいなんて
願うこともある

誰よりとびきり上手に君を
傷つけてみせるのは君

何も言わないで
泣けるだけ泣いて
時の音に耳を澄ませて
最低の夜に
最低の笑顔
高らかに

ありがとう 過ぎし日
涙の幕が上がれば
前が見えるよ

くだらなくていい
苦しまなくていい
君を近くに感じているよ
最低の夜に
最低の笑顔
それでいい

悔やんだ景色は
昨日へと走り出してる
明日が見えるよ
一緒に行こう

2013年9月17日火曜日

空飛ぶアザラシ

 上京した父が、息子にお土産でシールブックを買ってきた。シールブックというのはシール本体と、それを貼るための背景イラストが描かれたページが冊子状になったもので、子どもの多くが夢中になる、こそだて界では大変にポピュラーな商品である。
 大喜びで早速、シールを貼ろうとする息子。その横で、父がやたらと口を出す。「ほら、そこじゃないよ」「それはこっちだから!」。何とか「正しい箇所」に貼らせようと躍起になる父。「いいじゃん、どこに貼っても」。つい口を挟んでしまう私。

 「正しい箇所」というのは、たとえば魚なら水中、クレーン車なら工事現場、電車なら線路の上。シールブックには「貼り方の見本例」が載っており、確かにこれが「正答、正解」だと理解できなくもない。
 実際、幼稚園でも「シールを適切な箇所に貼る」練習をするらしいし、「知育シール」なんて名前の商品もある。世界の成り立ちを理解して、あるべきものを、あるべき場所に。もちろん、理屈はわかる。

 でも、子どもにとって、シールブックは遊びだ。だったら、好きな場所に貼ればいい。「どこにあるべき」「どこが正解」なんて考えなくていい。
 世界の成り立ちなんて、そのうち嫌でも覚える。魚が空を飛んでいたらヘンだと思うようになるのだから、せめて今は自由な発想で楽しんでほしい。
 「どこに貼ろうかな……」とうきうき考えている息子の思考を中断して「ここが正解!」と決めつけることは、発想の幅を狭めてしまうようで、むしろ知育的にも好ましくないような気がしないでもない私なのだが、もしかして少数派? ……いいけどさ。

 子どもの言動の「シュールさ」は一歳代がピークで、自力で体が動かせるようになる反面、世界の秩序は理解していないので、気づけば傘立ての中に積み木がギッシリだったり、鞄からニンジンが出てきたり、電子レンジの中にくまさんが鎮座していたり。
 秩序に縛られた大人には、何をやらかすか想像もできず大変なのだが、その突拍子もなさすぎる行動に、思わず笑ってしまうことも多かったりする。
 これが二歳代になると、少しずつ「シュールな」言動は減ってくる。それは成長で、そうでないと困るが、身近に異次元のボケをかます人間(=子ども)がいた、大変ながらも愉快な生活は終焉へと向かう。

 そうはいっても、三歳の今も「ママさ、ちっちゃくなったらぼくのイス座っていいよ」とかワケの分からんことをぬかしているので、しばらくは楽しめそうだけど。子どもだけに許された世界を、今はまだ存分に生きてほしいと願う母である。
 (父の誘導によって)正しく破綻なく貼られたシールブックを眺めても、ちっとも面白くない。空をアザラシが飛んでたっていいじゃん。ねえ。

2013年9月13日金曜日

きみのてのひらに

きみのてのひらに
石ころ
ごつごつごつ へんなかたち

なげればボール
つつめばキャンディ
あたまにのせれば ぼうし
かみのうえに おいたら
たまごやき

きみのてのひらに
タオル
ぼろぼろぼろ へたってる

まるめてボール
しいたらふとん
あたまにのせれば ぼうし
かたにひらり はおれば
にんきかしゅ

きみのてのひらに
くまさん
ふわふわふわ いいにおい

だっこで あかちゃん
なでなで あかちゃん
タオルでつつんで ねんね
ちゅーをしたら まるで
おかあさん

なげればボール
つつめばキャンディ
あたまにのせれば ぼうし
かみのうえに おいたら
ハンバーグ

きみのてのひらに
つみき
がじがじがじ はがたつき

きみのてのひらに
おりがみ
くしゃくしゃくしゃ これなあに?

きみのてのひらに
しいたけ
きみのてのひらに
油性マジック
きみのてのひらに
やまのてせん
きみのてのひらに
パパのメガネ
きみのてのひらに
おちぼひろい
きみのてのひらに
うちゅうじん
きみのてのひらに・・・

2013年9月12日木曜日

言葉が作る世界

 息子が二歳後半くらいのときの話。病院の待合室で、何やらブツブツとつぶやく息子。隣り合わせた60代くらいの女性が、その様子を笑顔で眺めている。
 「おともだちにあったときは『こんにちは』、なにかしてもらったら『ありがとう』、わるいことをしちゃったときは『ごめんなさい』……」。
 「まあ! 何ていい子なのかしら!」。思わず声をあげる女性。その横で、実に複雑な気分になる私。

 しつけが行き届いている、なんて思われたとしたら、真実からは遠い。息子は、少し前にたまたま読んだ絵本の文章を、ただ口真似していただけである。
 「ありがとう」も「ごめんなさい」も、まだ意味はわかっちゃいない。電車好きの子が複雑な車内アナウンスを耳で覚えて真似るのと、根は一緒なのだ。
 それでも、わざわざ人前でその部分を口に出すところに、息子の本質的な外ヅラの良さを感じてしまう。いやはや、誰に似たんだ。私じゃないぞ。

 絵本の文章、子ども向けアニメの台詞、聞き覚えた歌、親の口癖。入園してからは、習った歌や先生のおはなし。朝から晩まで、これらを絶え間なく口の端に乗せながら、息子は暮らしている。
 叱るときに何度か「うるさい!」と言ったら、すぐに使い方を覚えて反撃するようになった。「○○しなさい」「……うるさい!」。「ママ、やっつけてやるう!」これはアンパンマンで覚えたらしい。
 「ママ、ずっと一緒にいてくれる?」。これはペネロペ。何とも愛らしいが、残念ながら私への言葉でも息子自身の心情でもない。単なる口真似である。
 連日、アニメや絵本の台詞そのままに、一人芝居を繰り広げる息子。どこの子もこうなのか? 言葉の多くは芝居がかっていて借り物みたい。……いや「うるさい!」は感情こもってるけど(涙)。

 意味はまだ曖昧でも、言葉の持つイメージや空気感は、おそらく感じ取っている。耳に届くあらゆる言葉が、息子の思考や言語、世界観を形作っていく。
 本当に驚くほどよく覚えていて、子どもの吸収力に感心する反面、少し怖くもなる。あまり美しくない言葉は聞かせたくないな、なんて思ったりもする。
 でも、そんなことは無理だし、それでいいかな、とも思う。決して美しいばかりではない世の中を、これから生きていくのだから。

 私の父は、私が戦争の本を読むのを嫌った。そんな世界に触れてほしくない、親心だったのだろう。
 私は読むのをやめなかった。親の思惑の外側で、息子も自分の世界を作っていくのだろう。先のことは分からないけど、今はまだ楽しみに眺めていようと思う私である。きっと親には訳わからん世界だったりするんだろうな……。

2013年9月11日水曜日

Silence

くちびるに乗らない
小さな声
二度とは聞けない
祈りの声

どこへ向かうの
君の瞳
揺らぐ影だけ映して

胸の内で書いた
長い長い手紙
伝えられないまま
消えてゆく言葉
最果ての土地で
眠りにつく星たち
黙り込んだまま
涙こぼす灯火

I know the day in silence
I hear of you

ついにこぼれ出た
息吹は
二度とは消せない
刻印のよう

どうせ一人で
泣くのなら
その声だけでも届けて

探さないでいて
触らないでいて
崩れ落ちる前に
光り放つ星よ
見果てぬ夢の中
回り続けている
君をただ見ている
いつまでも見ている

I know your way of silence
I hear of you

胸の内で書いた
長い長い手紙
生まれることなく
消えてゆく思い
ジオラマの海に
波紋を起こして
君をただ見ている
いつまでも見ている

I know the day in silence
I hear of you

ジオラマの海に
波紋を起こしてみせて

2013年9月10日火曜日

私が服を作る理由

 今は「お金を出せば何でも手に入る世の中」。だけど「特別な思いを込めて作りたい」「手作りのぬくもりを伝えたい」「愛情を感じてほしい」……。
 
 子どもの手作り服に関する本やサイトには、大抵そんな「まえがき」が書かれている。洋裁が必須の家事ではなくなった現代、「手作りの理由」を提示しないと顧客に訴求しにくい時代なのかもしれない。
 ところで、私は「特別な思いを込めたい」から、息子の服を作ってるんだろうか。手作りのぬくもりを伝えたいから? 母の愛を感じてほしいから?

 違うな(笑)。もちろん、いろんな方がいらっしゃるだろうが、少なくとも私は、自分の胸の内をいくら探っても、そういう理由は出てこない。
 私の初「手作り子ども服」は妊娠中に編んだベビーニット。せっかくだから妊婦らしいことを、くらいの気分だった。根がハマり性なのでせっせと編んだが、出産後は編み物どころではなくなってしまう。

 再び「手作り」に目が向いたのは、入園準備のときだった。必要に迫られて、頂き物の古いミシンを引っぱり出した。ネットで検索すれば、入園グッズの作り方もわんさか出てくる。本も沢山あるし、どれも写真入りで懇切丁寧だ。その充実ぶりに驚きつつ、手探りで仕上げていく、達成感が心地いい。
 気づけば「次に作るもの」がないと不安になるほどハマっていた。子ども服は小さくて扱いやすいし布代もリーズナブル、汚すので数も必要と、ハマる要素が揃っている。初心者ママ向けの本やサイトも充実している。無心で何かを作る作業も癒しになる。

 相方に「無理に作らなくても買えばいいのに」と言われて「作りたいんだから作らせて!」と叫んだとき、私はハッキリと自覚した。自分が服を作るのは「好きだから」「楽しいから」。それだけだと。
 もちろん、理由は人によって違う。我が子に手作り服を着せたい人、既製品にはないファッションを楽しみたい人。子どもの喜ぶ顔が楽しみ、という人も多いだろうし、それはとても素敵なことだと思う。
 ただ私は、まあ好きでやってるし、子どもも気負わず着てくれればいいかな。そんなに上手じゃないし(涙)。とはいえ、息子が着なくなれば、はたして作るだろうか。着てくれる人がいる、というのは、やはり理由として大きい気もする。

 洋裁が苦手な母は、私が服を作ると言うと驚く。私は手作りは好きだけど、スキルはないしセオリーも知らない。型紙操作もできないし、直線の製図すら面倒。本音を言えば、そこまでする気はないのだ。
 母の時代と違って、今どきの手作り界は、そんな人間にも優しい。だから私にも楽しめる。時代の流れなのだろうな、と思う。

2013年9月9日月曜日

抱っこ!抱っこ!抱っこ!

 前に育児雑誌で「抱っこの無間地獄」という表現を見かけ、ううむと唸ってしまったことがある。無間地獄とは「絶え間のない地獄」。物騒だが、気持ちはわかる、というママさんは多いに違いない。
 抱っこが何故、地獄なのか。想像しにくいという方のために、ここで僭越ながらワタクシが、その大変さの一端でもご紹介できればと思う。『産後の睡眠不足考』に続く「ママは大変」シリーズ第二弾。うう、あまり増やしたくないシリーズだ……。

 赤ん坊が泣く。抱き上げてあやす。揺らしたりお尻をトントンしたりで数分〜数十分、奮闘のかいあって何とか眠りにつく赤ん坊。これだけでも十分に大変なのだが、真の辛苦はこの先にある。
 何故なら、寝床へ下ろした途端、再び起きて泣き出すのが、赤ん坊という生き物だから。ときには「そろそろ下ろそうか」との思いが脳裏をよぎっただけで「ほぎゃあ!」。瞬間、背筋が凍る。また一からやり直しか、と首を垂れる、あの絶望感。
 まったく、何かセンサーでも内蔵されているのか、腕の微細な血流変化を感じ取るチカラが備わっているのか。マンガみたいな話だが、子育てにはジョーシキで測れないことが、どうやら沢山あるらしい。

 乳児の母は、泣く→抱っこしてあやす→寝る→下ろす→泣く(最初に戻る)の無間ループを生きている。まず腕や腰を痛めるし、私は指の関節がおかしくなった。赤子をあやす母の姿は傍目には麗しいが、内実は相当ハードである。
 幸い寝入っても「また泣くかも」という恐怖に囚われ、下ろすに下ろせなくなる。この「恐怖心に苛まれる」というのがまさに「地獄」と称される所以だろう。仕方ないので寝た子を抱っこしたまま仮眠したり。これは何の修業だ。ああ、子育てか(涙)。

 少し大きくなると、子は自ら抱っこをせがむようになる。当然、そこにも無間地獄がパックリ口を開けている。下ろした途端「ギャー!」。こうなると親は家事も料理もできず、トイレにすら行けない。
 混雑したバスの中で、抱っこをせがむ女の子を見かけたことがある。その状況で抱っこするのは、逆に危険だ。母親は断るが、女の子は承知しない。半泣き状態で「抱っこ、抱っこ!」。そのまま終点まで数十分。お母さん、お疲れさまでした……。

 息子は最近、ほとんど抱っこをせがまなくなった。楽になったと喜んだのも束の間、近頃は「抱っこさせろー」と息子を追いかけ回す(!)母である。
 一体で過ごした十月十日。出産で二つ身に分かれても、しばらくは抱っこで密着状態が続く。そして少しずつ、母と子の距離は離れていく。寂しいけれど、この世の摂理。さあ、気を取り直して。今日も息子を追いかける私。
 息子は大はしゃぎで抱っこされるのだが、すぐにスルリと逃げてしまう。ただ抱っこされているのは、もう退屈なのだ。この世の無間は、いつか終わるものらしい。残念だけど。

2013年9月6日金曜日

幸運

ふと思えば
何も手にしていない自分に
愕然として

胸をかきむしるほどの焦燥と
たわいのない逃避による安穏が
交互に去来する日常に
くたびれはてて

自尊と自虐の狭間で
酔うほどに揺られ
残されたささやかな価値すら
削り取られていくようで

歩き出せば道に迷い
走り出せば躓いて転び
顔面をしたたかに打ちつけて
泣く気力も涸れ
暗闇を求め
這うようにして
伸ばした手が掴む影を

どうやら人は
幸運と呼ぶらしいのです


2013年9月5日木曜日

分身と恋人

 知人のパパさんが「男の子は同性としてかわいい、女の子は異性としてかわいい」と話すのを聞いて「なるほどー」と思ったので、今回はそんな話を。

 パパにとって、男の子は(年齢差はあっても)友達であり同志、そして自分の分身のような存在なのだろう。おそらくママにとっての女の子も同様に。
 親子である以上、対等な関係ではない。それでも同性どうし、友達感覚で一緒に遊びに興じたり、同性ならではの感覚や悩みを共有したり、子どもの姿にかつての自分を思い起こしたりするのだろう。
 一方、パパが娘を「異性として」かわいいと思う感覚は、男ではない私にはわからない。私に想像できるのは、息子という「異性」だけである。

 超音波で「ほら、ここにチョンと付いてるでしょ?」と医師に言われてから(よく見えなかったけど)数ヶ月後、我が家にもう一人の「男」がやってきた。
 ひとつ布団の中で、泣く子を幾度となくあやし、乳を含ませ、体をさすって寝かしつける。夜が白々と空ける頃、隣で眠る愛しい「男」を見つめて、陶然とつぶやく私。「昨日も熱い夜だった……」。

 ママにとって息子は「小さな恋人」。身悶えするほどかわいくて、隙あらば頬にチュー。四六時中一緒にいる、唯一無二の存在。確かにまるで恋人だ。
 また息子の行動が、恋人感に輪をかける。ペトッと抱きついて甘え、目が合えばチュー顔で迫ってくる。「ママだいすき」「かわいいね」等の歯の浮くような台詞を(たぶん親の真似をして)口にする。
 でも、それは「異性だから」なんだろうか。「私、娘に恋してるから」と話すママさんに会ったことがある。母というのは、我が子への恋にも似た感情を支えに、ハードな初期の子育てを乗り切るものなのかもしれない。逆に言えば、ハード故にそうした感情が人には用意されている、そんな気もする。

 息子の肌に、頬をすり寄せてつぶやく私。「ずっとツルツルでいてね。毛なんて生えないよね……」。「いや困るから」。即座にツッコむ相方。「そのうちワッサ〜って生えるから」。ギャー!! ツルピカかわゆい息子の肌に、そんな想像したくない……。
 これが娘なら「そのうち『パパくさ〜い』とか言われるよー」と言ってやるのに。そう思うと悔しい。

 今はママにベッタリの息子も、いつかは巣立っていくのだろう。似合いの伴侶を見つけ、親のことなど一顧だにせずに、自分の未来だけを見つめて。かつての自分がそうだったように。
 そう思うとジワッときて、これって父親が「娘は嫁にやらん!」ってのと同じかなあ、と思うとますますジンワリきて、これも異性ならではか。いやあ、親って切ないですね。でも伴侶は見つけてね。

2013年9月4日水曜日

ママわらってる? その2

ねえママ
ママのつくったごはん
とってもおいしかったよ
ぼく ママのごはん
だーいすき

ねえママ
そのふく よくにあうよ
ママ そのふくかわいいね
こんどまた着ようね
いっしょにおでかけするときにね

ねえママ わらってる?

ねえママ
ぼくね おさかなさんと
ブロッコリさんのサラダ
だいすきなんだよ
あーおいしかった
ありがとね ママ

ねえママ
ぼく もう泣き止んだよ
泣き止んで あかちゃんから
りっぱなおとこのこにもどったよ
もう あかちゃんじゃないよ

ねえママ
スイカさんは
きせつがおわりなんだよね
むぎちゃは
のみすぎたらいけないんだよね
おしっこが いっぱいでちゃうからね
ねえママ
ぱんつがちょっとぬれたから かえないとね
ぼく あたらしいぱんつ もってくるからね
すぐもってくるからね
まっててね

ねえママ わらってる?

ねえママ わらって?

2013年9月3日火曜日

幻の虫を求めて

 夏休みに家族で訪れた自然公園の一角で「世界のカブト・クワガタ展」なるものをやっていた。「見たい!」と叫んだのは、息子ではなく私である。中へ入ると、壁際にぐるりと飼育箱が置かれていた。さっそく近寄る私。
 「おお、これがニジイロクワガタか……あ、オウゴンオニクワガタ! ホソアカクワガタ、ゾウカブト……うおー、ヘラクレスオオカブト! でかっ!!」
 背後に感じる、家族の冷めた目線。息子は興味が持てない様子でボンヤリしている。

 まあ世の中には昆虫好きな女性だっているよね、という話ではない。これには理由があるのだ。というか、お気づきの方もいらっしゃると思うのだ。なにせ四〇〇万本近くも売れたのだから。
 ニンテンドー3DS『とびだせ どうぶつの森』に登場する虫(の、ほんの一部)である。ゲーム内に自分の「村」を作り、木や花を植え、施設を配置する。住人と交流し、虫や魚を捕り、季節の行事を楽しむ。大まかに言えば、そういうゲームである。
 私は昆虫好きなのではなく、ゲームのおかげで若干の知識と親近感があるだけなのだ。その証拠に、捕まえて家で飼おうとか、ヘラクレスオオカブトを求めてアマゾンの奥地を訪れようとまでは思わない。

 かつてはPS2『ぼくのなつやすみ2』で蝶採集にハマり、寝言のように「ミヤマモンキチョウがいない……クモマツマキチョウがいない……」とつぶやいて、相方に呆れられていた私である。いやあ、人って変わりませんね(涙)。
 こうした箱庭系のゲームでは、虫たちの外見もそれなりにリアルだし、採集できる時期や時間帯も細かく設定されている。レアな虫には滅多に会えないし、捕まえようと必死になるうちに、名前も覚えるし親近感も湧く。その過程が楽しい。
 ゲームの中とはいえ慣れ親しんだ虫を、現実に目にするのは、けっこう感動する、心に残る体験だった。余談だが動物園や水族館では、3DSをカメラ代わりに構える子どもをよく見かける。やっぱ3D写真かしらん? 私も今度やろうっと。

 カブトにクワガタという「得体の知れない黒い物体」に、終始引き気味だった息子。実際に触れるコーナーもあったが、手を伸ばすことはなかった。都会育ちのせいか、それとも気質なのか。単に年齢的に、まだ早いのかもしれない。
 でも、もし将来、店で高価なカブトをねだられたり、早朝に山へ採集に行かされたり、ヘラクレスオオカブトを探しにアマゾンの奥地へ連れていけとゴネられたりしたら、それはちょっと困るかな、うん。

2013年9月2日月曜日

季節を告げる歌

 夕食時に突然「立って食べてはいけません!」と叫ぶ息子。彼はいつも着席のまま一心不乱に食べるので、私がそう口にしたことは一度もない。おそらく幼稚園での、先生の台詞を真似ているのだろう。園での食事風景は、なかなか賑やからしい。
 「せのじゅん、せのじゅん」。息子がリズミカルに繰り返す。先生の掛け声の真似だろうか。「はやく、はやく」。「おそい、おそい」。だんだんキレてきたらしい(笑)。まるで目に見えるようで楽しい。

 今どきの幼稚園には「家庭からウェブカメラでチェック」なんてところもあるらしいが、園での様子を知るには、基本的には子どもの言葉が頼りである。
 あまり多くは語らない息子だが、それでも時折こぼれる言葉から、いろんな風景が垣間見える。そして、言葉以上にこぼれ出してくるのが「歌」である。

 『チューリップ』『こいのぼり』など誰もが知っている歌もあるが、園で習う歌には、一般にはなじみの薄いものも少なくない。歌詞とリズムは聞き取れても、メロディはあやふやだったり細切れだったりするから、全体像が掴みにくいのが悩ましい。
 [せーんせいと、おともだち♪][かいじゅうみたいにわらうけど/すてきーなすてきなパパなんだ♪][くじらのとけいはいまなんじ/いまくじいまくじいまくじららら♪]……耳コピなんで合ってるか不安ですが。メロディはようわからん……。

 ところで前段の『すてきなパパ』『くじらのとけい』は「六月の歌」である。当然ながら「父の日」そして「時の記念日」と関係している。『チューリップ』は四月、『こいのぼり』は、もちろん五月だ。
 その月に習う歌は、園からの便りに記されている。月が変われば歌も変わる。息子が歌う,歌も変わる。

 七月に入った途端[ヤッホッホ〜なつやすみ♪]と歌い出す息子。季節はまだ梅雨なのに、来たる夏を待ち望む陽気な歌が、家中に響き渡る。ああ、もうすぐ季節が変わるのだなと、息子が歌で教えてくれる。なかなか風流な気分である。
 10月のハロウィンが終わった途端、街のBGMがクリスマスソングに変わる、そんな感じだろうか。何だか情緒に欠ける喩えのような気もするけど。

 新しい月が来た。残暑は強烈だが、なにしろ突然、切り替わるのが、この「息子の歌で知る季節」の面白いところである。二学期の始業式を終えたら、さっそく新しい歌を歌い出した。[とんぼのめがねはみずいろめがね/あーおいおそらをみてたから♪]
 園便りには『とんぼのめがね』とある。だからさっき「トンボさんにメガネあるの?」と訊いたのか。意味がわからず「ないんじゃない?」と冷たく答えてしまったよ。いやもう、早く来ないかな秋……。

Blog