Now Loading...

2013年11月29日金曜日

幸運という名の悪夢

 サッカーくじで一等10億円が出たというニュースがあった。私は「特に羨ましくはない」と心の底から言えるのだが、「ええええ〜!?」と訝る方々のために、ひとつ説明を試みたいと思う次第である。
 ただし「夢を買う」行為を云々するつもりはないので誤解なきよう。私も宝くじこそ買わないが、欲しいライブチケットを当てるためコンビニで該当商品を買ったりはする。当たったことないけど(涙)。

 「10億円あったら何に使う?」という質問の、典型的な回答例から考えてみたい。まず仕事を辞める。家を買う。旅行や高級品に散財して、残りは貯金。そんなところか。仕事を除けば、確かに一度はやってみたい。ただしこの時点でも、相当な欲望のコントロール力が必要だろう。でないと貯金は残るまい。
 問題は仕事だ。10億円の貯金があり、かつ年収数百万程度の一般的な仕事をそのまま続けられる人は、おそらく多くはない。仕事というものの意味や価値が、ガラッと変わってしまうからだ。

 仕事が与えてくれるのは、言うまでもなく金銭だけではない。能力を認められ、評価され、生活の糧を得る。自尊心が生まれ、生きる手応えを感じる。
 仕事を辞めると、それらを手放すことになる。たとえ辞めなくても、大金を手にする前と同じ感覚では働けなくなってしまう。生きることは、働くことと同義だ。この場合の「働く」は当然、育児や家事も含む。そもそもお金が有り余っていて、何もする必要のない人生は、果たして幸せなんだろうか。
 散財も最初は楽しいだろう。しかし降って湧いた大金は、人生の流れをかき乱し、濁らせてしまう。巨大な幸運によって人生が大幅に狂うのは、やっぱり怖い。それもまた人生かもしれないけれど。

 20数億円を横領して使い込んだ人がいた。誰かが「目の前に20億円使ってもバレない仕組みがあったら、手を出さない自信はない」と書いていた。私もそう思う。宝くじよりよほど怖い「打ち出の小槌」。
 手にした小槌が有限であることに、彼はいつごろ気づいたのだろう。投資にも手を出したのは、何とか破滅を食い止めようとしたのか。今となっては悪夢を見ていた気分かもしれない。人生を投じた悪夢。
 お金以上に,費やした時間は二度と戻らない。彼が幸せだったかどうか,それは彼にしかわからない。

 以前、お金を貯めて40歳でリタイアしたい、と力説する人に会ったことがある。そんな若くリタイアしても、仕事がないって結構辛いと思うよ、とフリーランスの私は経験から(涙)言ったのだが、「それはお金がなかったからでしょ!?」と一蹴された。
 そうだろうか。みんな、そんなふうに思うんだろうか。私には、そんな巨大隕石のような幸運を、生きる意味の薄れた人生を、上手に捌く自信はない。日々健康で愛しい家族と過ごせる夢のような幸運と、あとは行きたいライブのチケットが当たれば十分なのだけど。いや本当に。

2013年11月28日木曜日

探したい夜

目を閉じて
鼓動を拾って
手探りで
君を探したい夜

風笛に
怯える君を
手探りで
つなぎ止めたい夜

あたたかな
闇を包んで
手探りで
君を縁取りたい夜

消えたのは
君だけじゃない
僕の鼓動も
君は奪っていった

夢に跳ぶ
光を散らして
手探りで
君を探したい夜

あたたかな
喧噪に紛れ
指先で
君と繋がりたい夜

この夢の
どこかに君を
感じるだけで
満ち足りていたのに

闇を消して
風を諭して
手探りで
君を探したい夜

2013年11月27日水曜日

ふるさとが刻むもの

 私の祖母は富山県に住んでいる。結婚前、初めて相方を連れて訪れた時のこと。親族が談笑する最中、ふと見ると相方が顔面蒼白になっている。どうしたの、と尋ねると、「言葉が全然わからない……」。

 祖母の富山弁がサッパリ理解できないだけでなく、私が普通に会話に参加しているのを見て、まるで自分だけが取り残されたようで本当に怖かったという。とはいえ、私も話せるわけではない。理解できるのは幼い頃から耳にしている祖母の言葉だけだ。
 「そんながやちゃ」「あんた、きのどくな」「なん、つかえんちゃ」……。富山弁は京都方面の流れを汲んで、語感が柔らかい。耳に優しい言葉である。私自身は愛知県の三河地方の出身だ。「じゃんだらりん」で知られる三河弁は、検索窓に入力すると「汚い」が候補に出てくる言葉である。
 その「汚い」三河弁を、我が子が普通に喋り出す。富山から嫁いだ母は、本音では嫌だったらしい。でも子どもにとっては故郷の言葉なのだから仕方ない。

 私は布団を「はぐる」と言う。鍋のフタも「はぐる」だ。これは三河弁ではない。どこから来たのか、と思っていたら、祖母が使っていた。
 壁に貼ったカレンダーが「かたがってる(傾いてる)ね」と言ったら相手に通じなかった。後で母に「『かたがってる』って方言らしいよ」と言ったら、「え!? 標準語では何て言うの!?」と驚いていた。
 富山に住んだこともないのに、私の中にはまるで血筋のように、富山弁のかけらが残っている。面白いものだなあ、と思う。

 たまに帰ると、地元で耳にする三河弁が妙にわざとらしく聞こえることがある。もう地元を離れて長い私にとって、気づくと接する機会のない、遠い言葉になってしまったのだ。「やだげえ」「ほだらあ」などと喋っていた自分も遠い過去のように感じる。
 それでも地元の友人に会えば、自然と輪の中に戻っていくのだろう。刻み込まれたものが、呼び覚まされる。懐かしくて新鮮な、不思議な感覚。

 長野県出身の相方は、服のボタンを「かう」と言う。私は最初「カウ? 牛(cow)?」というほど違和感があったが、今はすっかり慣れてしまった。
 長野の言葉で好きなのは「いじれる」。子どもが泣いているときなどに、「子がいじれとる」のように使う。とてもニュアンスが伝わる気がして、息子が赤ん坊の頃は自分でもしょっちゅう使っていた
 東京育ちの息子は時折「ひ」が「し」に聞こえる。園には祖父母と同居の子も多いせいだろうか。親や友人、自分に連なる人たちの言葉が重なって、彼の中に刻まれていく。思いもよらない方言が、息子の口から出る日が来るかも、と思うと少し楽しい。

2013年11月26日火曜日

タイムアウト

はい 時間切れです
この先には
夢も希望もありません

知らなかったんですか
もう終わりましたよ
この先には
めぼしいものはないです

どんな輝きも
どんな情熱も
身を焦がす情欲も
あなたを傷つけるだけ

先へ進みますか
それとも
ここにいますか
毛布にでもくるまって

はい 時間切れです
そう言われても
時間は正確ですから

気づかなかったんですか
予兆はあったはずです
そう言われても
時間は平等なんです

屈辱と後悔を
受け入れていくための
長い長い道程が
あなたを待っているだけ

先へ進みますか
それとも
ここにいますか
石膏にでも溶け込んで

瑞々しいもの
きらびやかなもの
力強いもの
華やかなもの

栄光の前の苦悩
頂上を見据えた一歩
夜明け前の倦怠
いつか叶うはずの夢

そこにあなたはいません
時間切れなんです
与えられた時間を
あなたは使い切ったのです

先へ進みますか
身を横たえる場所を探しに
それともここにいますか

先へ進みますか
絶望の砂金を探しに
それともここにいますか

2013年11月25日月曜日

呪文を解き放て

 彼女と出会ったのは、短期留学先のイギリスだった。関西の大学でスペイン語を専攻していた彼女は、スペインからの留学生とスペイン語でバンバン会話していた。「(英語と)どっちも学べてお得やわあ」と言った彼女の、柔らかな関西弁が耳に残っている。

 卒業後、彼女は語学力を買われて商社に就職した。東京勤務となった彼女と何度か飲みに行ったが、彼女によるとその会社は女性の活用に積極的で、責任ある仕事をドンドン任される。彼女も入社翌年に単身で長期海外出張に出ていた。女性が長く働けるよう、育休や職場復帰制度も整っているという。
 「いろんな国の言葉が飛び交ってな、みんな生き生き働いてんねん。ほんま楽しい」。自分の道に迷いがあった私は、目を輝かせて話す彼女が心底うらやましかった。明るく誰にも好かれる彼女は必ずキャリアを成功させると、私は信じて疑わなかった。
 そんな彼女が退職すると聞いたのは、就職してまだ四年目のことだった。しかもなんと「結婚退職」。

 「出産ならともかく、結婚で辞める人なんておらんからね。みんなビックリしたやろね」。新婚家庭らしい小綺麗なマンションの一室で、生まれたばかりの子どもの頭を撫でる彼女を、私は呆然と眺めていた。しばらく夫婦でゆっくり過ごすつもりが、すぐ子どもができちゃって、と彼女は笑った。
 「でも私、人のサポートをするのは好きやけど、自分がバリバリ働くタイプじゃなかったみたいでな。四年働いて、それがやっと分かったんや」。
 私は戸惑いながらも、彼女が幸せならいい、と思った。まもなく彼女はご主人の転職に伴い、関西へ戻っていった。翌年に届いた年賀状にはこうあった。「家族のために家事をするのが本当に幸せ。私には専業主婦が天職だわ!」

 当時の私には、彼女の選択に違和感があったのも事実だ。それでも、家庭の事情、本人の心情、時代の空気。様々な物事に左右されながら、私たちは日々を選択していくしかない。
 彼女も私も「これからは女性も仕事を持つべき」と言われて育った。現在のように「夢は専業主婦」とは言いづらい時代の空気があった。そんな「時代の空気」という呪文から、彼女は解き放たれたのだ、そう思った。誰もが思うように生きていければいい。女性も、男性も。

 私が転居を重ねたせいか、いつしか年賀状は途絶えしまった。彼女は今も元気に専業主婦をやっているだろうか。当時の子は、もう中学生になる。何をしていても彼女のことだ、きっと笑顔でいるだろう。
 私も母になったと知ったら彼女は何と言うだろう。「子育ては大変やけど、楽しいやろ?」。あの柔らかな関西弁で、きっとそう言って笑うに違いない。

2013年11月22日金曜日

過激の正体

 人は普段、自分の本心を隠して生きている。裸のまま外に出てしまうことのないように、何重にも覆ってデコレートして、相当に気を使って生きている。
 なぜなら人の心には、とても表には出せない、自分でも直視したくないような感情が渦巻いているからだ。差別、嫉妬、蔑視、憎悪。それらと何とか折り合いを付け、表向きを繕いながら、人は生きていく。それは綱渡りのように困難な所業にも思える。

 だから私は「過激」というのは、むしろ簡単ではないかと思ったりするのだ。毎日、必死で懇切丁寧に被せている心の覆いを、取っ払ってしまえばいい。飾らず出してしまえば、それは間違いなく「過激」になる。過激な言葉、過激な詞、過激な文章。
 もちろん、表現された芸としての過激さもあるだろう。けれど、心の覆いを外しただけの「過激」には、私はあまり興味が持てない。そもそも、今やネットで誰もが匿名で本心をぶちまける時代だ。生半可の「過激」では、大して人目も引けない。

 たとえば、ママタレさんのたわいのない言葉尻を捉えて炎上させるような、ネットで鬼女などと呼ばれるような人に実際に会ったら、性格の良い素敵な女性だった、ということは大いにあり得ると思う。
 種明かしは簡単だ。人なら誰もが隠し持つ、他人への嫉妬や羨望、攻撃性、他人を貶めることで安心したい気持ち。そんな感情がネットの匿名性によって生きる場を得た、鬼女とはそんな存在のように思う。実体はない。けれど誰の心の中にも棲んでいる。

 ママ友とは恐ろしい世界だ、と言いたがる人たちがいる。人が集まれば様々な感情が渦巻くのは当然で、その意味では会社も学校も地域も十分恐ろしい。
 人が本心を隠し、表面を繕うのは、人付き合いの技術、知恵であり礼儀でもある。隠された感情の渦を暴いてみせるのは、ドラマや小説作品の仕事でもあるけど、実際に剥き出しになることは多くはない。だからこそ作品に価値があるともいえる。
 現実にもいろんな人がいる。苦手な人、相性の悪い人がいるほうが普通だ。不満を感じつつも、誰もがそれなりにやっている。会社でも学校でもママ友でも。それが社会なのだから。一部の「ママ友怖い」論には、何やら悪意すら感じてしまう私である。

 「過激」は届きやすい反面、多くの人を傷つけがちだ。人を傷つけない表現などない、というのも真理だと思うけど、私はあまり人を傷つけたくはない。
 人に優しく、それでいて心に届く、そんな言葉を探したい。それはとても困難で、だからこそ、やりがいがあると感じる。なのに「お前は相変わらず過激なモノ書くなあ」なんて言われてしまうのだから悲しい。

2013年11月21日木曜日

あしたなかよし

きょうはたくさん 怒られました
おもらしは ぜんぶで三回
「どうして?」ってきかれても
気がついたら ぬれてるんだよ

ごはんのときは スープこぼした
走って転んで 泣いちゃった
最初は「だいじょうぶ?」って言ってたのに
泣き止まないから 叱られた

あした あした
あしたなかよし
あしたはきっと笑えるね
あした あした
あしたなかよし
あしたはママも 笑顔でね

きょうはずいぶん 怒ってました
やれやれ 疲れた へとへとよ
「してないよ」ってトボケても
ぬれたズボンは ひと目でわかる

スープは指じゃ 食べられません
ドタバタ走って ぶつかって
「びぇ~ん!」の中に 甘えっ子は何割?
やさしいママで いたいのに

あした あした
あしたなかよし
あしたはきっと笑えるね
あした あした
あしたなかよし
なにとぞお願いいたします

おやすみ前に ぎゅうっと抱っこ
なかよしこよしの おやくそく
ため息 プンプン 注意報だよ
おねしょは たぶんしちゃうけど

あした あした
あしたなかよし
あしたはきっと笑えるね
あした あした
あしたなかよし
あしたはみんな 笑顔でね

あしたも なかよし ママとぼく


2013年11月20日水曜日

ピースを探して

 義母から届いた荷物の中に、アンパンマンが描かれた子ども向けのジグソーパズルが入っていた。「これであそぶ!」。凄まじい食いつきを見せる息子。開けてみるものの、何をどうしたらよいか分からない。彼の人生初ジグソーである。
 パパと遊ぶうちに、何とか一人で作れるようになる。その様子を眺めながら、思い出が蘇る。何を隠そう学生時代、ジグソーにどっぷりハマったことがあるのだ。一つ完成すると次を作らずにいられない。あれ、今の服作りと一緒!? ……性分だな(涙)。

 ジグソーの魅力の根幹は、ピースとピースが「ピタッとハマる快感」。試行錯誤しながらレールを歩く、努力が確実に報われる安心感。小さな達成感の積み重ねが、大きな達成感に繋がる心地よさ。
 制限時間などはない。ゆったりした時間を過ごしたいとき、ジグソーはとても合う。ただ、単純なものなら気軽に取り組めるが、ピースが多いと時間もかかり、モチベーション維持が大変になってくる。
 難しくて放り出したり、完成前に飽きてしまうようでは楽しめない。加えて、手応えを感じるには最低でも五百ピース、完成品を飾るなら専用の額縁も、となると数千円単位でお金が飛んでしまう
 私がジグソーを作らなくなったのは、時間やお金以上に「作りたい絵柄」に出会えなくなったことが大きかった。「この絵を完成させたい!」という強い思いがなければ、趣味としては続かない。

 そんな、かつて夢中だった元ファンの目で見ると、この「アンパンマンジグソー」は実に「よくできている」。大勢のキャラクターが集合して楽器を演奏している絵柄だが、こういう「手がかり」の多い絵は作りやすく、かつ作っていて楽しいのだ。完成形の絵を見ながら「ドキンちゃんはどこ!?」とピースを探る、そんな子らの姿が見えるようで微笑ましい。
 一つピースをはめるごとに「やったー!」と喜ぶ息子。それにしても、いつの間にこんなことができるようになったのか。少し前まで積み木の型合わせもできなかったのに、なんて思い巡らす母である。少し前と言っても二歳頃の話だけど。

 ジグソーで最も難易度が高いとされるのは「ミルク」と呼ばれる代物だ。白一色。手がかりゼロ。私はちょっと、トライする気になれない。作ってて楽しそうじゃないし。完成しても白い板だし(笑)。
 そもそも今の私には、かつてのような時間はなくなってしまった。いつか作ろうと思って買っておいたジグソーは、小さな野球少年たちの絵柄。今は埃をかぶっているけど、息子がもう少し大きくなったら、一緒に箱を開けてみるのもいいかもしれない。

2013年11月19日火曜日

Myself

誰かの瞳に映る私が
百も千も万も積み重なって
私がいる
一瞬ごとの息吹すべて
切り刻まれた飴玉のように
私がいる

何も思いたくはない
何も失いたくないから
何も欲しくないのに
私という貪欲はどこから来たの?

自分じゃない自分が
自分の中から生まれて
自分じゃない自分に
自分が染まってゆく

目眩の輪の中
回り続けて
Myself
燃えて溶けてまた
固まってみましょう
Myself

誰かの瞳に映る私が
誰かを傷つけていたとしても
それが私
一瞬ごとに違う顔で
違う日常に立ち現れる
それも私

何にも囚われない
何にも惑わされず
何も恐れたくないのに
私という幻想に追い立てられて

自分じゃない自分が
自分の中から生まれて
自分じゃない自分に
自分を奪われてゆく

目眩に癒され
狂おしいほど
Myself
ここにいるのは誰?
逃げ切ってみせましょう
Myself

何も支配したくない
何も奪われたくない
何も壊したくないのに
私という戦場に炎が上がる

自分じゃない自分が
自分の中から生まれて
自分じゃない自分を
自分で埋め尽くしてゆく

……あなたは誰?
見覚えのない
Myself
幾千もの粒が
螺旋を描いて
Myself


2013年11月18日月曜日

不純な笑顔

 子連れで街を歩くと、やたら声をかけられるのはココココでも書いたが、あまり声をかけてほしくない人の目にも止まってしまうのが厄介ではある。
 伊藤理佐さんの『おんなの窓』にも、キョーレツなエピソードが載っている。ベビーカーを押して歩いていたとき、自転車で一旦は通り過ぎた女性が、突然引き返して笑顔で話しかけてきたという。「可愛い赤ちゃんだなーと思って声をかけさせていただきました。学資保険はお考えですか?」……。

 そこまで露骨な体験はないが、赤ちゃん連れのウブそうな母親は、一部の人にとって「ネギ背負ったカモ」なのだろう。まあ、いろんな世間を見せていただいてますよ。生きるって大変(しみじみ)。
 私がよく遭遇したのは、いわゆる宅配食材。路肩に駐めた小型トラックから運転手が下りてきたと思うと「ちょっとよろしいですか?」。よろしくないので足早に立ち去る私。ここの運転手(営業も兼務!?)は、顧客のマンションの他の住人への営業も抜かりない。決め台詞は「他の階の方も会員ですよ」。
 郵便局も子連れだと高確率で「学資保険は……」。切り出されるより先に「間に合ってます」と言いたくなるほどだ。民営化とは子連れにすべからく学資保険を勧めることなのか。そうか。そうかもしれん。

 一度や二度ならいいのだが、子連れと見るや自動的に営業モードに入る、彼らのあの「相手を商売の対象としてしか見ていない」カンジがシャクに触ってしまう。別の出会い方をすれば、宅配食材だって頼むかもしれないのに、とすら思ってしまう。
 そもそも私は、店でも店員さんに話しかけられるのが苦手だ。ゆっくり見たいのに、話しかけて思考の主導権を奪おうとする、いわゆる営業トークに我ながら異様なほど嫌悪感がある。買う予定だったのに、トークに辟易して買わずに帰ったこともある。ここまでくるとちょっと変かも(すいません……)。

 子どもに直接、話しかける店員さんも多い。「まあ可愛い」なんて言われれば親も悪い気はしないから、作戦としては正しかろう。しかし「子どもさんにお渡ししてますので」と、いきなり菓子やグッズを差し出すような、いかにも「子どもから釣ろう」感がミエミエだと、さすがに興ざめしてしまう。
 週末の家電量販店。某フロアへ立ち寄った私は、店員さんの視線を一斉に浴びてのけぞった。7〜8人はいる。「○○をお探しですか」「こちらは○○タイプで……」。ギャー、何でこんなに!! すいませんごめんなさい苦手なんです(た、助けて)……。
 気づくと息子がアンパンマンのついたクリアファイルを手にしている。振り返ると名札を付けた男性が「子どもさんに……」。クリアファイルを!? てゆうか誰!? 店の制服じゃないからメーカーの人!? 何の!? とりあえず何をもらっても買わないからっ。
 くっそー、アンパンマンさえ付けときゃ子どもは喜ぶと思ってるな。その通りなのが実に悔しい。

2013年11月15日金曜日

苦手なんかじゃない

 今でこそ詩や文章を書き散らして暮らしている私だが、実は国語が大の苦手だった。大学受験では試験科目に現代文のない大学を選んで受けたくらいだ。
 漢字も慣用句も苦手、読解問題では最も正解から遠い選択肢を選んでしまう。意味が通じないほうが逆にそれっぽい、とか思ったり。……バカ?(涙)。

 体育と図画工作は、ずっと5段階評価の2。要は平均より下という意味だ。だから私は、自分は体育と図画工作が苦手なのだ、と思って育った。そう思わざるを得なかった。だってずっと2なのだから。
 確かに跳び箱も跳べなかったし、走れば50メートル走で10秒以上かかった。体育は数値で出るから諦めもつく。では図画工作はどうなんだろう。
 明らかに絵のうまい子というのはいて、私はそうではなかったのは確かだ。手先の不器用さが当時から際立っていたのだろうか。そうかもしれない。何にせよ、相対評価で私は「平均より下」に編入された。それ自体は仕方のないことではある。

 絵を描くのが嫌いだった記憶はない。特に屋外での写生は好きだった。それでも私には「2」以上の評価は与えられなかった。
 「大きくのびのびと描きましょう」。先生の言葉に、私は画用紙いっぱいにニワトリの胴体を描いた。次に脚を描こうとしたらもうスペースがなくて、短い楊枝のような脚になってしまった。この絵は今でも両親の間で笑い……語り草になっている。
 小学五年生のときに作った木版画。このときも「大きくのびのびと」描こうと、画板いっぱいに笑顔の自画像を彫った。この木版画は市のコンクールで入選し、この学期だけ図画工作の成績は「5」に跳ね上がった。しかし次の学期には、「2」に逆戻りだった。私には過ぎた評価だったらしい。

 体育の成績は悪かったが、体を動かすのは好きだった。高校はハンドボール部。女子は人数が少ないので全員レギュラーだ。試合にもバンバン出た。
 大学の体育でやったジャズダンスは、我ながら見事なヘッピリ腰(笑)だったが、出席さえすれば「A」の好評価がもらえた。サークルで行ったスキー合宿では、怪しげなボーゲンで斜面を転がりながら進んだ。社会へ出てからはスキューバダイビングにハマった。どれも楽しくて仕方がなかった。

 性格的におっとりしている息子は、徒競走でも最後列をトットコ走っている。運動能力の高いほうではないのかもしれない。絵を描くのは大好き。折り紙や工作も好きで、冷蔵庫に自分の作品をマグネットでペタペタ貼る。まるでギャラリーのようだ。
 上手かどうかは知らない。まだ評価に晒されずに済む年頃だ。たとえ将来、どんな評価をされようとも、妙な苦手意識を持たないでほしいと願う母である。体を動かす楽しみ、モノを創る楽しみを知っていることのほうが、ずっと大事なことだと思うから。

2013年11月14日木曜日

こどもマーチ

とりあえずWA!って
なっちゃうのがいいんじゃない?
とりあえずWoo!って
ゆっちゃうのもいいんじゃない?

タイクツ 大敵 ぼくらは こども
生まれた ときから なぜだか こども
こどもなんだから Woo! WA!
足踏みしてちゃ Woo! WA!

前へ進め! エイエイオー!

どうして ぼくらは 小さいの
なっとく いかない パラリポー

とりあえずプリッて
おしりふればいいんじゃない?
とりあえずHEY!って
カッコつけもいいんじゃない?

かわいいね なんて 言われて 飽きた
当たり前 だって ぼくらは こども
こどもなんだから Woo! WA!
どこへだって行く Woo! WA!

全体止まれ! あっかんべー!

きのうが きょうの あさってで
ぜんぜん いみが わからない

スイッチ 切れたよ ぼくらは こども
コテンと ねむれば 夢見る こども
こどもだってさあ Woo! WA!
つかれちゃうんだから Woo! WA!

バックします! ピーピーピー!

おとなは どうして 大きいの
ずるいよ まったく ペレポプー

とりあえずWA!って
なっちゃうのがいいんじゃない?
とりあえずWoo!って
ゆっちゃうのもいいんじゃない?

全体止まれ! ワンツースリー!
右へならえ! あっかんべー!


2013年11月13日水曜日

親バカ讃歌

 生まれた直後から「(私に)似てる」と言われた息子だが、自分では正直よくわからない。そんなことより出産間もない頃の私はもう、息子が可愛くて可愛くて、ほとんど夢見心地だった。
 似てる云々とかではなく「ウチの子、こんなに可愛くていいの? ホント!? やったー!!」みたいな。書くと何かアホ母っぽいな。まあいいや(笑)。

 ハードな新生児育児の真っただ中、身もココロもヨレヨレなのに、息子を見るともう可愛くて愛おしくてたまらない。書いてる自分が恥ずかしいが(笑)でも、そうだったんだから仕方がない。大きな瞳、長い睫毛、ぷくぷくホッペ。まだ目も合わず笑いもしないのに、ずっと見ていても飽きない。
 産後間もない母には、自分の子が特別可愛く見えるホルモンか何か出てるんじゃなかろうか。まるでキラキラパウダー(?)を振りかけたみたいに、私には息子が輝いて見えた。神様の贈り物、地上に降りた天使だと、本気で思えた。

 街へ出るようになると、次々と見知らぬ人が「可愛いわねえ」と話しかけてくれる。「そう? やっぱりウチの子って可愛い!?」。もう母は有頂天だ。
 どの子の親も、同じような体験をしているはず。心のどこかでそう思うだけの理性は残っているのだが、気を抜くと親バカ心が走り出す。何かにつけ「ウチの子は特別なんじゃ……?」と思ってしまう。
 しかし親が我が子を特別視すること自体は、とても自然なことにも思える。過度は問題だが、卑下するのもどうだろう。誰もがその子なりに個性的で、唯一無二の特別な存在だ。そのことを、誰よりも自信と説得力を持って伝えられるのは親だろうから。

 ブサイクをウリにする某女性芸人が、親にはこう言われるという話をしていた。「○○ちゃんほど可愛い子はいないのにねえ」。親御さんは、娘さんがブサイクと言われることが納得できないのだという。
 何と正しい「親バカ」だろう。私はこんな親になりたい。世間の価値に揺らぐことなく、何があろうと子どもの価値を根っから信じている。それは、子どもが安定した人格を築く土台となる気がする。
 確かに親バカには、一歩間違うと現実検討力の低下した「バカ親」になる危険も潜んでいる。正しい親バカ道を、私は今後も追求していく所存である。

 園生活が始まった春、息子と同じ年頃の子どもたちを見て、私は思わず心の中で叫んだ。みんな、なんて可愛いんだろう。顔立ちや性格云々ではない。あの子もこの子も、とにかく可愛くてたまらない。
 子どもは子どもであるだけで、誰しも十分に可愛いのだ。園へ行くたびに、そう再確認する私。キラキラパウダーが、子どもたちの歓声の中へ散っていく。それでいいんだと思う。

2013年11月12日火曜日

育児の学び方

 私は「子どもの育て方」を、実母を始め身近な誰からも教わらなかった。里帰り出産でもなく知識も経験もなかった私が、何とかここまで育ててこれたのは何のおかげだろう、というのが今回のおはなし。

 ちなみに、インターネットは(少なくとも乳児期は)ほとんど活用していない。今でこそ何か疑問があると検索することもあるが、出産当初はとてもじゃないがパソコンの前に座る余裕はなかった。
 オムツの替え方は、妊娠中に産院の両親学級で教わった。授乳の仕方や入浴の仕方は、産後の入院中に助産師さんから実践指導。「調乳指導」の講師がミルクメーカーの営業レディだったのはご愛嬌だ。
 出産前には『はじめての育児』的な本も買った。新生児の抱き方、着替え、体の手入れ、発育の流れに離乳食の与え方、病気ケアに生活リズムの作り方。
 書籍はただ淡々と、母業に必要な情報を漏れなく伝えてくれる。今どきのニーズに応えて内容も懇切丁寧、図解や写真も豊富だ。そして、育児雑誌。

 人気の育児雑誌を二種類、私は毎月愛読していた。月齢や季節ごとの悩み、気晴らしの読み物、育児に役立つ付録。元来が雑誌好きなこともあり、隅々まで読み込んでいたが、雑誌にはマイナス面もある。
 不特定多数へ向けたメディア故に、いわゆる一般論の域を出ることができないのだ。個別の疑問には決して答えてくれないのが雑誌の宿命でもある。

 たとえば我が子が偏食で困っているとする。偏食は一般にこんな理由や解決策があって、という「一般化された情報」は得られるが、「それで結局、ウチの子はどうしたら食べるの!?」という、ママが最も知りたい問いには、雑誌は決して答えてくれない。
 平均や標準から外れると過剰な不安に陥りやすい面も否めない。何ヶ月で首座り、何ヶ月で寝返り、何ヶ月でお座り何ヶ月でハイハイ。雑誌の情報は目安でしかないのに、誌面にもそう書いてあるのに、そこから我が子が外れると不安でたまらなくなる。

 雑誌には一般論しかない。雑誌は流行を追う。その内容は慈善でも福祉でもなく商品だ。わかって読めば、振り回されることも減る。未知の暗闇を手探りで進むような乳児期、技術的にも精神的にも、どれほど雑誌に助けられたことか。
 「流行はあるけど正解はない」育児は、原則として自己決定・自己責任の世界だ。親が選択して責任を持って、育児の日常は怒濤のように進んでいく。そんな現代事情も育児雑誌は垣間見せてくれる。同じ時代を生きるナマの声は、やはり励みになる。不安なときも一人じゃないと思わせてくれる。
 多くの育児雑誌は一歳六ヶ月で卒業を迎える。私は寂しくて、その後もしばらく買い続けたほどだ。決して付録に釣られたわけではない。と思う。

2013年11月11日月曜日

夜を見せてあげる
君に夜を

蠢くヘッドライト
そう あれは蛇
君が怖がっていた
夜の使者

四角く光る箱の群れ
そう あれは灯火
命の数を
数えてともる

肌寒い闇に
光が笑う
君をいざなう

夜を見せてあげる
君に夜を

何かが君を呼ぶ
何かが君を手招く
立ち止まった君を
光の輪が包む

闇を羽織って
夜を駈ける生き物
その背に乗れば
二度と戻れぬ

甘い闇に
光が飛び散る
君を目指して

瑞々しい闇に
光が跳ねる
君を連れ出す

夜を見せてあげる
君の夜に

私の居場所はないから

2013年11月8日金曜日

メンクイ狂騒曲

 私はいわゆるメンクイではない。少なくとも自分ではそう思う。と若い頃に言ったら、友人にこう言われたことがある。「えー、Aくんがかわいそう」。

 Aくんというのは当時の彼氏だ。私は一瞬、本気で意味がわからなかった。私は別に彼氏がブサイクだと言ったわけではないのだが、どうもそんなニュアンスに取られてしまったらしい。
 異性を見るときにビジュアルを重視する人、ルックスから入る人、くらいの意味だろうか。世間でイケメンとされるタイプを好む人、という説明もアリかもしれない。いずれにしても、私は当てはまらないのだから「メンクイ」ではない、と言うしかない。

 イケメンとは社会的な指標なので、個人の主観とは当然ズレがある。私は世間一般で言うイケメン(相当、幅広いけど)は確かに概ねタイプではないが、「見た目はどうでもいい」わけではない。見た目は大事だ。顔立ち、体つき、表情や仕草が醸し出す空気。人となりの大きな部分を外見は占めている。
 出会った当初は「少し変わった顔立ちだな」と思った人を、後から好きになることが私は多かった。これもあくまで自分の中での話であって、世間的にヘンな顔とされる人(?)が好きなわけではもちろんない。「どこか心に引っかかる顔」とでもいうか。
 ところで私がメンクイではないと言うと、相方はいい気はしないらしい。「顔で選ばれたい」願望が男性にはあるんだろうか。私は「顔で選んだ」と言われても、別に嬉しくはないけど。顔って変わるし。

 男性は「女は皆イケメン好き」と思いたがる傾向があると思う。特に週刊誌やスポーツ紙等の男性メディアに顕著だ。そのほうが男性はラクなのだ。自分がモテないのはイケメンじゃないからだと思えるから。イケメンに生まれなかったのは自分のせいではなく、モテないのも自分のせいではない、となる。
 とはいえ、イケメン好きを標榜する女性は多い。私の周囲にも「男は顔!」と断言する輩がいるが、でも彼女らの配偶者が皆イケメンかと言うと、当然そんなことははない。彼女らは妥協したんだろうか。泣く泣く、タイプではない人と結婚したんだろうか
 大事な人生の伴走者を、誰も本当は顔だけで選んだりしない。そう考えたほうが自然だと思う。いや、外見だけは妥協(!)せざるを得なくて、だからイケメンを求めるという図式もあるか。うむむ……。

 息子が生まれた瞬間、私は瞼を見た。二重の相方に似てほしいと思っていたから。相方は鼻の下を見たという。自分に似てほしくない部分だったらしい。
 子どもの顔立ちは、その未来にも似て不安定だ。イケメンでなくていいから個性のある顔になってほしいと、秋の夜長に妄想する母である。顔つきから存在が匂い立つような男。いいね、うん。

2013年11月7日木曜日

流れを見つめて

 自分の周りを、流れている何かがある。それは時間だったり、空気や想いだったり、理想や妄想、運命や運勢、人間関係や、過去の記憶だったりする。
 言葉にするのが難しいのだが、自分の周りには何らかの「流れ」があって、その流れの中で生きている、私にはそんなイメージがある。いわゆる「気」と呼ばれるものに、いくぶん近いかもしれない。

 たとえば私が言葉を探すとき、流れの中を必死でもがくイメージが浮かぶ。手をジタバタさせるうち、何かが引っかかる。もしくは流れに身をゆだね、祈るような気持ちで言葉が流れてくるのを待ち構える。
 生きた時間が長くなるほど、流れは一定の方向性を見せる。自分がこれまで選んできた選択、望んできたもの、出会ってきた人。それらが流れを形作る。それなりにスムーズに走る流れから、飛び出したり逆らったりするのは、年を経るごとに困難になる。

 若いうちは、傷ついたり辛い思いをするほど、自分が成長しているような気がした。自分を取り巻く流れに逆らって、身を切られながら前に進むのが、人生の醍醐味なのだと思っていた。
 それがそのうち、そうも言っていられなくなる。傷つくたびに、これまでの人生を否定されているようで辛くなる。傷の治りが遅すぎて、下手すると膿み広がってしまう。
 自分の人生の流れに存在しない物事にいきなり飛びつくのは、要らぬ傷を負うリスクが高い。もちろん「そういう生き方こそ自分らしい」と感じる人もいるだろう。その人にとって、それは「流れ」の一環なのだ。そういう人は悩まない。無理をしているのでなければ。
 不安を感じるのは至極当然なことだ。年を重ねれば守るものも増える。傷のダメージが、以前とは違うのだ。だからといって、守りの生き方しかできないわけではない。流れを変える方法はもちろんある。

 「流れ」は、あくまでも自分だけのものだ。自分で感じることしか「流れ」を知る方法はない。だから注意深く観察する。理屈だけではなく感覚で感じ取る。流れの音に、じっと耳を傾ける。
 そうしてほんの少し、波紋を起こすのだ。流れを揺らし、空気を動かす。流れを辿って少しずつ、立ち位置をずらしていけば、見える景色も変わる。無理はしない。流れは自分の生き様そのものであり、自分を守る砦でもあるのだから。

 ここぞとばかりに無理をする、迷いなく飛び出せる、そんなタイミングも時に訪れる。そんなときは躊躇せず飛ぶ。はっきり言って失敗はある。自分の「流れ」を見誤ることは往々にしてあるからだ。痛い目を見つつ、流れを見つめて、流れに寄り添う。流れを感じて、少しずつ、小さな波紋を積み重ねる。
 行き詰まりを感じたら、波紋を起こしてみるのもいい。自分を取り巻く「流れ」を、ほんの少し揺らすのだ。自然な変化は、強く美しい。私たちはいつでもいくつでも、静かに美しく変わっていける。

2013年11月6日水曜日

泣いてもいい

誰より夢中でがんばっていたね
たったひとりでもくじけなかったね

ほら おいで こっちだよ
泣いて いいよ

痛いのも歯を食いしばりがまんしたね
泣きわめいたけど何とか乗り切ったね

ほら ママは ここだよ
泣いて いいよ

君の思いを解き放つ
その涙もいつしか乾いてく
甘えられる人がいる
人生にはいつもそんな人がいる

君の そばにも きっと

こんな計画じゃなかったはずなのにね
大海原を泳ぐ夢でも見たのかな

ほら 涙 ふいて
笑って ごらん

立派なお兄ちゃんはちょっとお休み中
失敗ばかりイヤになるのもわかるかな

ほら ママも 笑うから
笑って ごらん

君の涙を覚えてる
ママだけはきっとずっと覚えてる
甘えられるぬくもりに
今このときだけのぬくもりに

頬を 埋めていたい

君の思いを解き放つ
その一瞬が時を彩る
抱きしめられる人がいる
誰かを抱きしめられる人生に

君も いつか 出会う
今は 泣いて いいよ


2013年11月5日火曜日

イクメンの文脈

 あなたの周りに、こんなパパはいないだろうか。子育てに積極的な「イクメン」だと自負し、それなりにやってくれるのだが、時々こんなことを言う。「俺、ウンチのオムツ替えだけはダメなんだ」……。

 ……その、二本の手は何のためにあるのか。飾りか!? 「ダメ」って何だよ「ダメ」って!!
 いや、取り乱して申し訳ない。しかし不思議ではないか。何も重量挙げ選手並のバーベルを持ち上げろとか、パティシエ並の飴細工を作れとか言っているわけではないのだ。トイレでパンツを下ろせる人が、オムツを替えられないわけがない。
 そういう意味ではないのだろう。もちろん分かっている。彼らはただ、甘えているだけだということを。そしてそれは、確かに悪いとは言いきれない。

 なぜなら、甘えることは一種の家庭内コミュニケーションでもあるから。恋人や家族は、甘えが許される数少ない存在だ。お互い了解していれば、むしろ適度な潤滑油となるだろう。けれど「ウンチのオムツ替え」は、そこに当てはまるんだろうか。
 パパが臭いものはママも臭いし、パパが気持ち悪いものはママだって気持ち悪い。でも、誰かがやらなければならない。ウンチのオムツ替えに限った話ではなく、「ダメ(苦手)だからやらない」が許されない文脈を、ママたちは必死で生きている。
 そこで「苦手だから」と平気で逃げてしまえる人に「イクメン」面されてもなあ、と思う私である。

 友人のダンナさんも「ウンチはダメ派」なパパだった。私は憤り、先のような持論を友人に披露した。彼女は苦笑して「ホント、そうだよねえ」と頷いた。
 しかしよく聞いてみると、このパパさんは彼女の負担軽減のために帰宅を早め、食事や入浴を手伝ってくれるという。もちろん不満もあるが、彼なりに努力してくれているのだと、友人は感じているのだ。そこで私が正論を盾にダンナさんを責めるのは、かえって彼女を辛くさせてしまうのではないか。
 そう気づいた私は反省した。友人を辛い気分にさせるのは本意ではない。夫婦二人の文脈で、子育ては営まれていく。彼女のダンナさんがウンチのオムツを替えるべきか否か、それを決めるのは友人夫婦であって私ではない。私にできるのは、ダンナさんに向けて密かに念を送ることくらいだ。

 以前に育児雑誌で、あるご夫婦の一日のスケジュールを見て仰け反った。パパは朝6時に出勤、帰宅は夜11時。ほぼ「寝に帰る」生活にも関わらず、ママと交代で2時間おきに起きて泣く赤子の世話。当然、ロクに眠れず、朝は6時出勤の帰宅は深夜……。
 イクメンもいいけど、それで倒れても誰も責任とっちゃくれない。こんな生活ではママも辛いだろう。空気のような言葉を流行らせる前に、できることはないのか。最近よく見かける、スーツに抱っこヒモ姿で駅へと急ぐパパたちを眺めながら、そんなことを思ってしまう。

2013年11月1日金曜日

裏庭

それなら私はよろこんで
あなたを彩る絵になろう
バックヤードの片隅で
散りゆく一葉の黄になろう

それなら私はよろこんで
あなたを讃える声になろう
肉体も精神もない
音だけの魂になろう

それなら私はよろこんで
あなたを受け取る箱になろう
瞼と耳を閉じたまま
どんなかたちにでもなろう

それなら私はよろこんで
あなたの前から消えゆこう
決して視界に入らぬよう
小さな苔にでもなろう

そうして私はよろこんで
あなたを見つめる目になろう
あなたの名を呼ぶ声になろう
あなたを言祝ぐ空気になろう

そうして私はよろこんで
あなたを彩る単位になろう
バックヤードの片隅で
光で見えない暗闇で


Blog