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2013年11月22日金曜日

過激の正体

 人は普段、自分の本心を隠して生きている。裸のまま外に出てしまうことのないように、何重にも覆ってデコレートして、相当に気を使って生きている。
 なぜなら人の心には、とても表には出せない、自分でも直視したくないような感情が渦巻いているからだ。差別、嫉妬、蔑視、憎悪。それらと何とか折り合いを付け、表向きを繕いながら、人は生きていく。それは綱渡りのように困難な所業にも思える。

 だから私は「過激」というのは、むしろ簡単ではないかと思ったりするのだ。毎日、必死で懇切丁寧に被せている心の覆いを、取っ払ってしまえばいい。飾らず出してしまえば、それは間違いなく「過激」になる。過激な言葉、過激な詞、過激な文章。
 もちろん、表現された芸としての過激さもあるだろう。けれど、心の覆いを外しただけの「過激」には、私はあまり興味が持てない。そもそも、今やネットで誰もが匿名で本心をぶちまける時代だ。生半可の「過激」では、大して人目も引けない。

 たとえば、ママタレさんのたわいのない言葉尻を捉えて炎上させるような、ネットで鬼女などと呼ばれるような人に実際に会ったら、性格の良い素敵な女性だった、ということは大いにあり得ると思う。
 種明かしは簡単だ。人なら誰もが隠し持つ、他人への嫉妬や羨望、攻撃性、他人を貶めることで安心したい気持ち。そんな感情がネットの匿名性によって生きる場を得た、鬼女とはそんな存在のように思う。実体はない。けれど誰の心の中にも棲んでいる。

 ママ友とは恐ろしい世界だ、と言いたがる人たちがいる。人が集まれば様々な感情が渦巻くのは当然で、その意味では会社も学校も地域も十分恐ろしい。
 人が本心を隠し、表面を繕うのは、人付き合いの技術、知恵であり礼儀でもある。隠された感情の渦を暴いてみせるのは、ドラマや小説作品の仕事でもあるけど、実際に剥き出しになることは多くはない。だからこそ作品に価値があるともいえる。
 現実にもいろんな人がいる。苦手な人、相性の悪い人がいるほうが普通だ。不満を感じつつも、誰もがそれなりにやっている。会社でも学校でもママ友でも。それが社会なのだから。一部の「ママ友怖い」論には、何やら悪意すら感じてしまう私である。

 「過激」は届きやすい反面、多くの人を傷つけがちだ。人を傷つけない表現などない、というのも真理だと思うけど、私はあまり人を傷つけたくはない。
 人に優しく、それでいて心に届く、そんな言葉を探したい。それはとても困難で、だからこそ、やりがいがあると感じる。なのに「お前は相変わらず過激なモノ書くなあ」なんて言われてしまうのだから悲しい。

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