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2013年11月25日月曜日

呪文を解き放て

 彼女と出会ったのは、短期留学先のイギリスだった。関西の大学でスペイン語を専攻していた彼女は、スペインからの留学生とスペイン語でバンバン会話していた。「(英語と)どっちも学べてお得やわあ」と言った彼女の、柔らかな関西弁が耳に残っている。

 卒業後、彼女は語学力を買われて商社に就職した。東京勤務となった彼女と何度か飲みに行ったが、彼女によるとその会社は女性の活用に積極的で、責任ある仕事をドンドン任される。彼女も入社翌年に単身で長期海外出張に出ていた。女性が長く働けるよう、育休や職場復帰制度も整っているという。
 「いろんな国の言葉が飛び交ってな、みんな生き生き働いてんねん。ほんま楽しい」。自分の道に迷いがあった私は、目を輝かせて話す彼女が心底うらやましかった。明るく誰にも好かれる彼女は必ずキャリアを成功させると、私は信じて疑わなかった。
 そんな彼女が退職すると聞いたのは、就職してまだ四年目のことだった。しかもなんと「結婚退職」。

 「出産ならともかく、結婚で辞める人なんておらんからね。みんなビックリしたやろね」。新婚家庭らしい小綺麗なマンションの一室で、生まれたばかりの子どもの頭を撫でる彼女を、私は呆然と眺めていた。しばらく夫婦でゆっくり過ごすつもりが、すぐ子どもができちゃって、と彼女は笑った。
 「でも私、人のサポートをするのは好きやけど、自分がバリバリ働くタイプじゃなかったみたいでな。四年働いて、それがやっと分かったんや」。
 私は戸惑いながらも、彼女が幸せならいい、と思った。まもなく彼女はご主人の転職に伴い、関西へ戻っていった。翌年に届いた年賀状にはこうあった。「家族のために家事をするのが本当に幸せ。私には専業主婦が天職だわ!」

 当時の私には、彼女の選択に違和感があったのも事実だ。それでも、家庭の事情、本人の心情、時代の空気。様々な物事に左右されながら、私たちは日々を選択していくしかない。
 彼女も私も「これからは女性も仕事を持つべき」と言われて育った。現在のように「夢は専業主婦」とは言いづらい時代の空気があった。そんな「時代の空気」という呪文から、彼女は解き放たれたのだ、そう思った。誰もが思うように生きていければいい。女性も、男性も。

 私が転居を重ねたせいか、いつしか年賀状は途絶えしまった。彼女は今も元気に専業主婦をやっているだろうか。当時の子は、もう中学生になる。何をしていても彼女のことだ、きっと笑顔でいるだろう。
 私も母になったと知ったら彼女は何と言うだろう。「子育ては大変やけど、楽しいやろ?」。あの柔らかな関西弁で、きっとそう言って笑うに違いない。

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