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2013年12月30日月曜日

小さな未来

 ブログ開設当初、知人や友人にお知らせメールを出した。それを読んで見に来てくれた友人のひとりから、後にこんなメールが届いた。
 「(ブログのタイトルから)子育てブログかと思って見に来たら、全然違うからビックリしたよ」。

 ……私は私なりに「子育てブログ」を書いているつもりなのだが、まあ彼女の驚きは想像できる。
 イキナリ縦書きだし、字はギッシリだし、何やら面倒そうな内容だし(……三重苦!?)。可愛い子どもの写真とママのひとこと的な、気軽に見て和める「子育てブログ」とは、確かにだいぶ趣が違う。

 子育て中のママさんはもちろん、これからママになる妊婦さん、将来ママになる可能性のある独身女性、まだまだ結婚・出産は遠い未来の若い人たち。
 さらにはパパさんや、小さな子どもとは接点の少ない独身男性。そういった方々にも目にしてもらえればと願って、私はいつも画面に向かう。
 いわゆる子育てブログが、同じママ同士の交流や情報交換を目的としているのと比べると、少々散漫な印象を受けるかもしれない。でも、これこそ私のやりたかったことなのだから仕方がない。

 母と子のいる風景。一見、子育てブログと見紛うこのタイトルで、私はすべてを語ることができると思っている。育児に限らず、ありとあらゆる事柄を。
 子のいない人は多々いるけれど、母のいない人はいない。人の息吹がある限り、そこには子がいて母がいて、またその母がいる。その連なりの中に私たちはいて、その中で世のあらゆる事象は起きる。増税も殺人事件も人気司会者の失言も、近所の猫の出産も、すべては「母と子のいる風景」の一角にある。

 子育てを、とても狭い世界の営みだと思う人たちがいる。母とは「子育てにしか興味を持たない(持てない)視野の狭い人間」だと感じる人たちがいる。そんな言説に出会うたび、私は本当にビックリしてしまう。こんなに広く豊かな世界はないのに。
 「子育てに『しか』興味がない」というのは、子育てを一段下に見た表現だ。確かに私も子を持って初めて、その世界の豊かさを知った。現代の女性は男性と同じ教育を受けるから、出産・育児の知識は多くの場合、当事者となるまで皆無に等しい。
 知らなかった世界を知る喜びが、現代の子育てには満ちている。その世界は閉じてなどいない。子育ては社会と、地域と、そして未来と繋がっている。

 我が家に小さな「未来」がいる。親の知らない時代を生きる、小さな次世代がいる。小さな未来とともに、新しい年へと向かう。どんな景色が見えるだろうか。洩らさず噛みしめていたいと思う。一緒に歩く時間は、そう長くはないのだから。

2013年12月27日金曜日

プレイバック2013

 自分で言うのも何だが、この文字ばっかりの(笑)読みにくいブログを、開設半年で延べ約一万六千人の方に見ていただけた。記事一本あたり百人以上の計算になる。縁あって目を止めてくださった皆様。本当に有り難うございます(ぺこり)。
 読んでくださる方の心に、何か少しでも届くといいなと、ささやかながら願うのみだが、今回は開設以降、PV数の多かった記事を振り返ってみたい。
 私にとっては日記代わりに書き続けたブログ。お馴染みの方も、そうでない方も、よければご一緒に。

●総合1位 私が服を作る理由
 時々投稿する手芸系の掲示板から、多くの方が来てくださった。手芸ブログではないのが心苦しくてアルバムを作ったり。続・私が服を作る理由も上位。
●総合2位 苦手なんかじゃない
 11月の公開にも関わらず、破竹の勢いで2位に。楽しんだもの勝ち、という私の姿勢を支持していただけたのか、それとも写真(ラグランタートルを着た息子の後姿)のおかげかは残念ながら不明。

 その他、エッセイで上位だったのは、妊婦ダイエット抱っこ!抱っこ!抱っこ美人の母は好きですか笑う母親乳やりソングのススメなど。
 タイムスリップな日々泣くということ空飛ぶアザラシあたりは月間1位を獲得。季節を告げる歌ママのたんじょうび子役の条件なども上位に。ダイエットや子役といったキーワードはやはり強い!?

●詩1位 ちっちゃくなったら
 八月の朗読会で読んでいただいた作品のひとつ。時々「(こどもの詩は)子どもの言葉そのままなのか」と聞かれるが、えーと、違います……。
●詩2位 さいしょのおわかれ
●詩3位 泣き顔
 どちらもブログ開設前につくった初期のもの。母子の詩では、ママとカバンきみのてのひらにきみのたんじょうびこどもマーチありがとうっていえたよ、あたりが人気。意外なところでも。
 「みんなの詩」ラベルのアクセストップは幸運憂いある日々しあわせ/ふしあわせみらくるぱわふる重荷と続く。タイムアウトが最近スコアを伸ばし中。……こういうの、意外と皆さんお好き!?

 ネットでは時間を共有することが重視されがちだが、一方で何年も残り続けるのもネットの特性だ。何ヶ月後、何年後に読んでも楽しめるもの、再び読み返したくなるものを書きたいと常に思っているので、気楽にお立ち寄りいただけると本当に嬉しい。
 さて、振り返っておいて何だが、まだ書きたいことが残っているので、年内にあと一回、更新する予定である。「よいお年を」は、そのときに。

2013年12月26日木曜日

なにもない

なにもないからここにいるんだよ
なにもないからここにいるの

空気のように拡散して
ただよってしまいがちな心を
ヒトのかたちにとどめておくのは
結構大変なの

なにもないからここにいて
いまにもからだから漏れ出して
あたり一面に拡散して
空気に混ざって溶けて消えてしまいそうな
心を

なんとか抱えもって
心と体をこわばらせて
ふるえながら固まって
固まりながらふるえて
ヒトのかたちの器のなかで
溶けて崩れてしまわぬよう
必死で呼吸を保っているのは
結構大変なの

なにもないからここにいるの
なにもないから

もう いっそ
気体だったらいいのに


2013年12月24日火曜日

聖夜の山手線

ただいま山の手せんは
うんてんを見合わせております

じこです
じこなんです
クリスマス駅で
じこがはっせいしました

しゃりょうのなかで
けむりが出ています

あ サンタさん!
サンタさんが
山の手せんに乗っています
プレゼントも
しゃりょうにもっています

サンタ山の手せん 東京行き
まもなくドアがしまります
うーうー
がたんごとん がたんごとん

うーうー
がたんごとん がたんごとん

つぎは 品川 品川
池上せん お乗りかえです
サンタさん とーん 降りまーす
サンタさん 降りるの
だいぶじょうずになりましたね

うん サンタさんはね
トナカイと
でんしゃに乗って来るの
池上せんに乗りかえて
ようちえんに行くの
ようちえんで クリスマス会あるでしょ
それに行くの

だって
ぼく ようちえんで
いい子にしてたからね

お!
サンタさん 飛んだ!!

ひゅうううう!!
みんなのお家がよく見えます

つぎは
みんな駅 みんな駅
みんなのお家にとうちゃくー


2013年12月23日月曜日

新・私が服を作る理由

 さすがにしつこい気もするが(笑)自分でも不思議なので、つい考えてみたくなる。「服を作る理由」シリーズ最新版。お好きな方だけ(?)どぞー。

 手芸店に「入園・入学準備」のポップが並ぶ季節になった。カラフルな生地を眺めながら「今ならもう少し手をかけて作るのに」なんて思う私。「何せ一年前は、なーんにもやらなかったからなあ」……。
 「ええっ!?」と結構驚かれたりするので、今回はそのへんのお話を。いやもう、頂き物のミシンは押し入れの奥で冬眠してましたから。十年ほど(笑)。

 「入園グッズはお母さまの手づくりで」と言われて「はぁっ!?」と鼻白んでいたのが、一年前の私だった。説明会で隣に座ったママさんも「ミシン持ってないし、どうしよう……」と途方に暮れていた。
 しかし、そんな「いや裁縫とかあり得ないし」な新米母の選択肢は意外なほどに多い。必要な材料が全て揃った製作キット、無料講習会、オーダーにセミオーダー。いっそ完成品すら手芸店に並ぶ。
 私は迷った末、入園グッズ専用のパネル布を選んだ。型紙は不要。布にプリントされた線の通りに裁断して縫い合わせれば出来上がり、というシロモノである。オリジナリティは皆無だが、自力で作るイメージがサッパリ湧かない新米母には有り難い。

 「ミシンは楽しい。もっと何か縫いたい」。そう思って、今度は子どものパンツを縫った。ミシンには中毒性がある。針の単純で規則的な上下。平面の布が縫い合わさって、普段使いの小物になる嬉しさ。
 布を選ぶ楽しさ。好きなカタチの服を、好きな布で作る喜び。ファストファッション全盛の現代、手づくりは一点モノであり個性だ。子どもの名付けにこだわるように、子どもの服にも自分たちらしさが欲しい。家族でお揃い、兄弟姉妹で色違い。どこにも売ってない、自分たちだけの服を着る誇らしさ。

 かつては手芸や洋裁というと、どこか上から目線で「ヘタだと怒られそうな」イメージがあった。不況のせいか、それとも時代が変わったのか、今は初心者に優しく甘い世界だと思うのだが、今も同様の印象を持つ方は少なくない。私もそうだったし、私の母は「裁縫なんてまっぴら」なタイプだ。ミシンも捨ててしまったらしい。
 かつて手づくりは母たちにとって、限りなく義務に近かった。子育ては終わった。だからもうミシンには触れたくない。そりゃそうだろうな、と思う。

 私がミシンに向かうのを見て「今はそんな時代じゃないのにねえ」と母は言う。私が服を作るのは、それが趣味だから。好きで楽しむためにやっているので、義務も強制も上から目線も、まっぴら御免だ。
 ただ、子どもの頃に母が(嫌々ながらも?)作ってくれた、毛糸のパンツや巾着袋を、今でも時々思い出す。ふうわりと、あったかい気持ちになる。

2013年12月19日木曜日

真冬の切実

 子どもの健康管理は、基本的には親の役目だ。何せ子どもは「暑い」「寒い」も上手く言えない。自力で体温調節ができないので、親がやるっきゃない。
 近頃がっつり寒くなった寝室で、パンツいっちょで「今日は暑いねえ」とホザく(!)三歳児と暮らすのは大変ですよよよ、とゆうのが今回のおはなし。もうね、ワザとやってるのかもしれん(涙)。

 息子はド真冬生まれなので、新生児の頃はそれは気を使った。加湿機能付きのヒーターで部屋を暖め、軽い羽毛布団を重ねる。しかし汗をかいてはいけないので暖め過ぎもNGと、新米親にとってはハードルが高くてもう何が何やら、ギャー手が冷たいぃいー汗かいてるぅう、と昼も夜も大騒ぎであった。
 寒くても一日一度は散歩へ、と育児本(←新米母のバイブル)にはある。とにかく着せて、おくるみでぐるぐる巻いて外へ出る。寒い(←当たり前)。
 足までスッポリのジャンプスーツも使った。着ぐるみ感バツグンで大変かわゆいのだが、あれも汗に要注意である。真冬なのにアセモができて、病院で「お母さん、着せ過ぎです」と怒られたトホホ、とゆうのが冬の育児雑誌の定番ネタのひとつである。

 暑いのは汗で分かるが、寒いのは分かりにくい。震えていたり唇が紫色なら簡単だが、それでは遅い。
 「寒い?」「ううん、寒くない」。日に幾度となく交わす会話。その言葉を信じられたら、どんなにラクだろう。「着るのが面倒」「遊びを中断したくない」。こうした感情から、いくら寒かろうが「寒くない」と平気で言い放つのが子どもである。信じてバカを見る(=風邪を引かせる)のは親である。
 運動会に遠足、クリスマス会にお餅つき。園には行事が多い。何日も前から準備して楽しみにして、当日に風邪で欠席する。→行きたいと大暴れ。ああ、想像するだに恐ろしい。だから、悪いけど切実だ。

 「ほら、トイレの後は早くパンツ穿きなさい。ズボンも!」「いつ靴下脱いだの!? 寒いのに!」「おもらし黙ってちゃダメじゃない。濡れたズボンとパンツ、早く替えないと風邪引くでしょ!!」
 極寒の真冬、予定より三週間も早く現れた小さな命。病院で体温が下がり、焦ったこともあった。退院後も、小さな身体は油断するとすぐに冷えきってしまいそうで、小さな命の火はわずかな風で消えてしまいそうで、本当に本当に怖かった。同じ布団で卵を温めるように、冷たい手足を包みながら眠った。
 今の息子は健康優良児だ。園も休んだことがない。まるまるした頬で、何でも食べる。有り難いと感謝しつつ今日も「早くパンツ穿きなさい!」と叫ぶ私。
 義母にもらった子ども用ハンテンを着て「これ脱いだら暑いよね?」。わざとなのか、まだ区別がつかないのか。寒いときには正しく「寒い」と言ってほしい、それがママのクリスマスの願い(切実)。

2013年12月18日水曜日

三人のサンタクロース

三人のサンタクロース
どれが来ても本物

昨日のサンタ
先週のサンタ
あさってのサンタ

細長いサンタ
猫背のサンタ
お腹だけは見事なサンタ

どれも本物
お空の上から
よい子のみんなを眺めてる

ティッシュを配るサンタ
クマの耳のついたサンタ
バイクで疾走するサンタ

残業代を気にするサンタ
昨対比を気にするサンタ
夕飯の献立を気にするサンタ

どれも本物
心配はいらない
トナカイのソリも待機中

心優しいサンタ
怒りっぽいサンタ
道に迷いっぱなしのサンタ

残業続きのサンタ
転職を考えているサンタ
オムツが替えられないサンタ

三人のサンタ
三千人のサンタ
三億人のサンタクロース
どれが来ても本物
プレゼントも持ってるし
長いおヒゲも生やしてる
よい子の笑顔が見たくって
トナカイに乗る日を待っている

パパがサンタ?
いいえ それは偽物
世界でたったひとつの偽物

さあ 目を閉じて
本物に会いにゆこう


2013年12月16日月曜日

寂しげな大人たち

 息子がまだ五、六ヶ月頃だったと思う。ベビーカーで歩いていると、白髪のご婦人に声をかけられた。
 「じーっと私を見ていたのよ」。彼女は嬉しそうに、ベビーカーの息子に顔を近づけて言った。「ありがとうね、こんなおばあちゃんのこと、見てくれて。こんな、おばあちゃんなのにねえ」。

 私は少し驚いて彼女を見た。豊かな白髪をきちんと整え、ラベンダー色のツーピースを着こなした、むしろ華やかな印象のご婦人だった。「こんなおばあちゃん」という、どこか自虐的な言い回しが、まったく似合わないほどの。
 彼女が穏やかな笑みを残して去ってしまった後も、私は複雑な気分が拭えなかった。人生を十分に楽しんでいそうな彼女ですら、あんな台詞を口にするようになるのが、年を重ねるということなのだろうか。

 これまで、数えきれないほどの「おばあちゃん」世代の方に声をかけられたが、「(息子が)私のほうを見ていたから」という理由を挙げる方が結構いた。乳児は、目についたものを凝視することがある。色や動きに気を惹かれることもあるが、偶然にしか見えないことも多かった。
 それでも、彼女たちは「私を選んで見てくれた!」と喜ぶ。人込みから突然、ひとりの女性が「私を見てたのよ!」と感激の面持ちで現れたこともあった。
 まだもの言わぬ乳児のこと、本当のところは分からないし、考えるのも野暮だろう。そういうことにしておけばいいのだな、と次第に学んでゆく。

 「かわいいわねえ」と話しかけた後で、ご自分の孫や曾孫のことを綿々と口にする方も多い。ただ単に、話がしたかったのだろうなと思う。まあ、これも社交だ。可能なかぎり笑顔を作る私。
 余裕のないときは、申し訳ないと思いつつ会釈で立ち去ることもある。子連れというだけで見知らぬ人の自分語りに付き合う暇はないやい、と思う反面、数十年後の自分の姿かもと思えて、少し胸が痛い。
 春に祖父を亡くして以来、祖母は何かと「寂しい」と口にするようになった。昼間は田舎の広い家で一人きり。寂しさを紛らわそうとデイサービスに通い始めた。都会で出会う祖母世代の女性たちは、驚くほど快活で華やかに見える。人が多すぎると、寂しさが見えにくくなる。 他人からも、自分からも。おそらく年齢に関係なく。

 クリスマスソングで賑わう繁華街で、ハイテンションで歌い踊る息子に近づいてきた女性。ひとしきりご自分の孫について語った後、息子を見て言った。「元気ねえ。もうすぐお兄ちゃんになるんだものね」。
 ……。確かにゆったりした服とマスクにペタンコ靴だけど(とほほ)。ま、いいけどさ。しばらくこの服、着るのやめよう、うん(←少し傷ついてる)。

2013年12月13日金曜日

共感と想像と

 「最近、育児が辛くて」。会う人ごとにこんな台詞を呟いていたのは、息子が二歳半頃のことだった。
 いわゆる「イヤイヤ期」がいよいよハードになり、座れば「立って!」と泣き、立てば「座って!!」と泣く息子(……どうしろと!?)に、さすがに疲労困憊だった頃だ。いやキツかった。まあ、長い子育て期を思えば序の口なのでしょうけど(涙)。

 そんな私の「ちょっとマジ」感が伝わったのか、こんな反応をしてくださる方が結構いた。「大丈夫。過ぎればどうってことないから。今だけだから!」。
 お気持ちは大変に嬉しい。特に子育て経験のある先輩方は、こうおっしゃる率が高かったように思う。励ましてくださっていると思うと心苦しいのだが、ここは敢えて申し上げてみたい。この論法は、ときに新米母を追いつめる。少なくとも、私は辛かった。

 「育児が辛くて」と告白したとき、間髪入れずに「大丈夫、今だけだから。あはは」なんて笑顔で言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまうのだ。正論過ぎて。グチすら言えなくなってしまう。
 その通りだろう、その通りだと思う。でも「そのうち終わる」と百回言われようとも、渦中にいる人間は、やっぱり苦しいのだ。いつかは終わると知っていても、陣痛の痛みが和らぐことはないように。

 でも、言うほうの気持ちもわかる。息子は歩き初めが遅かったのだが、一歳を過ぎても歩く気配のない娘さんを心配する友人に、私も言ってしまったことがある。「大丈夫、そのうち歩くから!」。
 自分の経験を踏まえ、励ますつもりだった。しかし考えてみれば、根拠はどこにもないのだ。単なる希望的観測、無責任な励ましでしかない。
 その励ましが嬉しいときもあるだろう。一概には言えないけど、まずは「悩む心に共感する」のがいいんじゃないかと、最近は思う私である。たとえば「なかなか歩かないと気を揉むよねー」てな感じで。

 たまにはグチって「大変だね」なんて言われたい。答えを求めているわけじゃない。口に出すだけで、ラクになる部分は確実にある。「大丈夫!」と言われると、そこで話は終わってしまう。切り離されたような気分になってしまう。
 「そうだよね、辛いよね」程度に言っていただけると、イチ新米母としては大変嬉しい。「最近、育児が辛くて」。単なる愚痴かもしれない。でも、もしかすると本当に限界で、やっとのことで口に出したSOSかもしれない。
 所詮、他人にできることは少ない。でも、ほんのささやかな共感で、ウソのようにラクになることもある。経験上、共感が難しい方は、せめて「想像」してもらえると嬉しいなと思う。それで十分だから。

2013年12月12日木曜日

君の世界

君の笑み
君の喜び
君の驚き
君の涙

君の貪欲
君の戸惑い
君の秘密
君の諦め

君の理不尽
君の怒号
君の挑戦
君の迷い

くちびるに
ふれたくて
てをのばす

君の濡れ衣
君の嘘
君の歌声
君の足音

君の独白
君の繰り言
君の苛立ち
君の賭け

君の視線
君の呟き
君の湿り気
君の匂い

ひとりきり
せをむけて
そらをみる

君の角度
君のステップ
君のプライド
君の都合

君の磁場
君の退屈
君の引力
君の夢

あともどり
できなくて
たちすくむ

君の思惑
君の孤独
君の足跡
君の世界

2013年12月11日水曜日

クリスマスの住人

 季節の変化は、息子が歌で教えてくれる。つい先日まで[つたぁ〜のはっぱが、まっかだなぁ〜♪]と歌っていたと思ったら、12月に入った途端に[まっかなおっは〜なの〜、トナカイさんは〜♪]。心弾むクリスマスシーズンの到来である。

 「クリスマスはサンタさんが来るんだよね」「トナカイのソリに乗って、お空飛んでくるの」「そしたらプレゼントもらえるんだよ」。生まれて初めて知る事実(!)をうきうきと語る息子に、全世界でお約束の台詞を返す私。「いい子にしてたらね」。
 昨年までは知らんぷり(笑)していられたのだが、今や幼稚園ですっかり知恵をつけ……教わってきた息子の頭の中は、楽しいクリスマスのイメージで一杯だ。サンタ,トナカイ、ソリ、鈴の音、ジングルベル。プレゼント、クリスマスツリー、スノーマン。

 「天にまします我らの父よ。願わくば、クリスマスにはバービー人形をください」。そんな祈り(?)を布団の中で唱えていたのは10歳頃のこと。クリスチャンではないのだが、近所に小さな教会があって、子どもたちの遊び場になっていた。教会のクリスマスパーティで毎年、降誕劇を演じたのを覚えている。流れ星、ベツレヘム、馬小屋、そして三人の賢者。
 連日のお祈りにも関わらず、当のクリスマスの朝、枕元に置かれていたのは、バービー人形の何倍もの値段であろう、立派な百科事典セット(本棚付き)だった。……バービーちゃんでよかったのに(涙)。

 園の参観日。北国のサンタさんから手紙が届く。「わあ、お手紙が冷たいよ!」。先生、なかなか芸が細かい。「トナカイの具合が悪くて困っています。代わりにトナカイを作ってください」。サンタさんのお願いに、せっせとトナカイを工作する園児たち。
 地域のクリスマスパーティでは、「みんなのために、サンタさんが来てくれました!!」「……」。顔を付け髭で覆ったサンタ(有志の男性)に、子どもたちは微妙な反応。「去年は怖くて泣いちゃう子もいたから、今年はいいほうだよ」と囁く先輩ママ。
 来週は園のクリスマス会。本番のクリスマスはその後だ。いったいサンタは何人いて、どれが本物なんだろう。辻褄合わせに私が混乱するほど(笑)だが、息子は特に疑問はないらしい。あるがままを受け入れることに関して、子どもというのは天才的だ。

 百円ショップのサンタ帽を頭に乗せて、今日もクリスマスソングを熱唱する、我が家のちびサンタ。我が家にとっては、確かに君こそ本物だ。
 「そんな悪い子のところには、サンタさん来ないよ!」。全世界でお約束の脅し文句を、今日も元気に叫ぶ母。トナカイのソリに乗ったサンタクロースが、夜空を鈴の音鳴らして現れる。そんな光景に、久しぶりに心躍らせるクリスマスがやってくる。

2013年12月9日月曜日

努力の精度

 「あなたに足りないのは努力だけなの。努力なんて、いちばん簡単なことなんだよ」。20代の頃、友人に言われた言葉は、その呆れたような声のトーンまで、強く心に残っている。何より「努力は簡単」というフレーズが、当時の私には衝撃的だった。

 努力という言葉には、目的のために辛いことも我慢する、そんなニュアンスがある。何だか暗いし、愚直で不格好だ。できれば避けて通りたい。
 先日も、海外で成功を掴んだ日本人の方が、インタビューで「努力はしたことがない」と語っていた。好きなことをやってきただけ、というニュアンスだ。
 ただし、額面どおりには受け取れない。言葉を学び、勝負できる分野を見つけ、知恵を絞って腕を磨いたからこそ今がある。そんな自分を「努力」という冴えない言葉で語りたくないのだろうな、と思う。

 努力が得意だという人もいる。いわゆる成功体験を持つ人は、努力に強い。受験然り、ダイエット然り。彼らは「努力の道筋」を見いだすのが上手だ。
 的確な目標を掲げ、到達までの明確な道筋を引き、迷わず進む。努力で得たものを着実に身につける。だから彼らは、努力を信じることができる。
 一方で、時間と労力を浪費するだけの「下手な努力」もある。数年前、私はある志を抱き、寸暇を惜しんで努力した。今なら私にも言える。努力は辛くない。信じた道を突き進むのは甘美ですらある。
 本当に辛いのは、努力の道筋を見失ってからだ。どう努力したら良いのか分からない、または自分の努力が的外れだったと知る辛さ。暗闇の一歩先は崖であるかのような、あの絶望感。

 かつて「走った距離は裏切らない」と語ったアスリートの姿に、多くの人が感動した。しかしその後、彼女が怪我に苦しみ、思うような成果が出せずにいることを、私たちは知っている。
 もちろん、だからといって努力の価値は揺らがない。努力は万能ではない、それだけだ。私たちがいくら努力しても、彼女のようには走れない。
 努力は難しい。努力の道筋を見つけることは、もっと難しい。「努力は簡単」と言える人は、精度の高い努力ができる才能の持ち主だと思う。しかし冒頭の友人は、むしろ「努力ではどうにもならないものがある」と伝えたかったのだと、今になって思う。

 相変わらず大好きな「お兄ちゃん」のDVD を観ながら歌い踊る息子。新曲もすっかりお気に入りだ。周囲の大人から「将来はお兄ちゃんみたいになる?」なんて聞かれたりもする。
 エンターテイナーにはならなくていいけど、どんな道を選んでも、努力が信じられる人でいてほしい。努力ができるのは、とても幸せなことだと思うから。母ちゃんも頑張らないとね、うん。

2013年12月6日金曜日

10年後のあなたに

 10年後のあなたは、何をしていると思いますか?

 よくありそうな質問だけど、答えるのはけっこう難しい気がする。たとえばあなたが10歳だとして、20歳の自分を容易に想像できるだろうか。
 ちなみに私が子どもの頃、ノストラダムスの大予言というのが流行っていて、「その頃には大人だから、結婚して子どももいるだろうし、子連れで(恐怖の大王から)逃げ惑うのかなあ」なんて、子ども心に思っていた覚えがある。もちろん、現実には結婚すら遠い未来だった(わはは)というオチである。

 20歳のときに30歳の自分、はどうだろう。大学生の頃、30代の人生なんて想像もつかなかった気がする。30歳のときに40歳の自分の想像はつくだろうか。30歳なら気分的にも若いし、むしろ自分たちが時代の中心のような感覚だろう。40歳なんて年寄り(笑)のことは想像する気も起きないかもしれない。
 以前、仕事で一緒になった20代前半の女性。職場の40代の先輩に贈り物をしたいが、何を贈ったらいいか分からないという。「40代の人が喜ぶものって、サッパリ浮かばなくて。万年筆とか……?」
 真摯に悩む彼女だが、話を聞くうちに浮かび上がる彼女の脳内の、妙に年寄り然とした「40代像」に、ア然というか苦笑してしまった私であった。そうだよねえ。20代から見た40代って、そんなもんだよねえ。バカボンのパパだって41歳だしねえ……。

 40歳にとっての50歳、50歳にとっての60歳。10年後は、近いようで遠い。人の生き方が多様化して、時代の変化も早くなって、人の置かれた状況や環境はガンガン変わるから、ますます先が見えない。
 ネットを彷徨っていると、二〇〇〇年代前半の日記や記事に出くわすことがある。ブログもなかった時代、私がHTML辞典を引きながら必死で作った、当時参加していたバンドのホームページもまだ残っている。昔の文章を見るのは恥ずかしいけど、あまり変わってないなあ、と思ったりもする。

 もしあなたが今30歳で「もう若くないな……」と悩んでいたとしても、間違いなく言えることがある。「40歳のあなたから見れば、はるかに若い」。
 もしあなたが今40歳でも、50歳のあなたから見れば十分に若い。あなたが50歳でも、60歳でも70歳でも、10年後のあなたから見れば笑っちゃうくらい若い。人生は有限だ。悩む間があったら進んでいたいと常々思う。

 先のことはサッパリわからないけど、子どもを持った今はただひとつ、確実にわかっていることがある。10年後には、13歳の男の子の母親だということ。
 どんな13歳かはサッパリわからないけどね。たったひとつ確実なものがあるだけでも、それを支えに歩いていけそうな気がして嬉しい。七年後にはオリンピックも来るしね。うん。さあ、前を向いて。

2013年12月5日木曜日

終わりの地平

遠い場所と聞いてた
地図にもないような
遠い未来と思ってた
想像できないような

歩いているかぎり
いつか辿り着いてしまう
そうさ
止まらずに来た
それだけが誇り

いつか終わりの地平に立って
あなたは何を思うのだろう
胸かきむしる程の澱を束ね
跳ぶのだろうか

いつか迷いの果つる土地で
あなたは何を守るのだろう
たったひとつ信じたものを
抱えていられるだろうか

全速力で駈けてた
賑やかな脇道
陽の当たる獣道
どこまでも道なき道

どれほど迷っても
いつか辿り着いてしまう
いまは
乱れた足跡
それさえ愛しい

いつか終わりの地平に立って
私は何を思うのだろう
一瞬のうちにすべてを悟り
跳ぶのだろうか

いつか思いの消える場所で
私は何に出会うのだろう
たったひとつ願えるならば
会いたい人がいる

いつか終わりの地平に立って
いつか始まりの断崖を蹴って
カモメのように翼を広げ
跳ぶのだろうか

いつか終わりの地平に立って
あなたは何を思うのだろう
閉じた瞳に映る景色を
愛していられるだろうか


2013年12月3日火曜日

ラッコと猫と人間と

 生まれて間もない頃、ドデンと仰向けに寝転がっている息子を眺めながら、よく思ったものだった。「なんか、ラッコみたい……」。

 寝返りも打てず、仰向けのまま手足をジタバタさせるばかり。まだ表情に乏しく目線も合わず、歯は生えていないのだが冬だったせいか上唇の皮がめくれて、げっ歯類の前歯のように見えた。
 人間というよりは、まるでラッコのような息子を眺めながら「早く人間にならないかなあ……」と思っていたのを覚えている。ラッコは愛らしいが、やはりコミュニケーションが取れないのは寂しい。

 寝返りが始まると、ラッコだった息子にも少しずつ人間らしさが加味されてくる。それまでは偶然、手に触れたものを掴むだけだったのが、次第に興味のあるものへと自ら手を伸ばすようになる。行動に「意志」を感じる。ヒトとしての確かな進化。
 ズリズリと這い回るようになれば、栄えある自力移動のスタートだ。得意げに体をひねって家中ズリズリ。敢えて例えるならヘビだろうか。頂き物の高級ベビー服が、あっという間に毛玉だらけになる。
 そして膝をつき、お尻が上がり、肘が伸びる。四つん這いの、いわゆるハイハイの姿勢だ。上体が起きると、グンと人間っぽさが増す。好きなところへ移動して、気の向くまま手を伸ばして引っぱり出して、イタズラ三昧になる頃である。

 ある日、ハイハイからテーブルに手をかけた息子。誰が教えたわけでもないのに、足の裏を床につける。「つかまり立ち」の完成だ。しかしまだ体重は足に乗っておらず、ずるずるとバランスを崩してドデン! とすっ転んだ映像が今も残っている。時折、再生してはクスクス笑ってしまう母である。
 息子は歩き出したのが遅かったせいか、人生で最も愛らしい時期の一つ「ヨチヨチ歩き期」が短かった。私は今でも、可愛いヨチヨチちゃんを見ると条件反射で目を細めてしまう。同時に、なかなか歩かず気を揉んだ日々を、小さな痛みとともに思い出す。

 最近の息子は、なんだか猫みたいだ。すぐにゴロンと横になる。誰に似たのか横着で、楽をしようとして逆に面倒なことになる。寝転がったまま水を飲もうとして、水をかぶって大号泣。アホである。
 母が机に向かっているときは、邪魔すると怒られると知っているのに、それでも近くにいたいらしく、視界の端にちょこんと座って一人気ままに遊んでいる。つかず離れず、時折じゃれついてきたりする。
 私は猫を飼ったことはないけど、猫と暮らすってこんな感じ? 七歳までは神のうち、なんて言うけれど、いい意味で人間になりきっていない、不思議な存在と暮らす日々も、悪くないなと思ったりする。

2013年12月2日月曜日

魔法のほっぺ

ほっぺがひとつ ほっぺがふたつ
ほっぺ ほっぺ ほっぺ ほっぺ
……ほっぷん!

おそらのうえで かみさまが
おいしいパンを やきました
ひとくち たべよと ちぎったら

あれあれ? おっこちた!

それが
きみのほっぺ 魔法のほっぺ
ふんわり まあるい パンみたい
かわりに ママが たべちゃおう
もぐもぐ あー おいしいな

ほっぺがひとつ ほっぺがふたつ
ほっぺ ほっぺ ほっぺ ほっぺ
……ほっぷん!

おそらのうえで かみさまが
もひとつ パンを やきました
こんどは おくちに いれたいな

あれあれ? おっこちた!

それが
きみのほっぺ 魔法のほっぺ
そうっと さわって みてごらん
ふんわり やわらか もっちもち
つんつん あー おいしそう

ほっぺはいくつ? ほっぺはふたつ!
みぎと ひだりに ひとつずつ
きみのほっぺと ママのほっぺが
あれあれ? くっついた!
だいすきが つたわる おまじないだよ

ほっぺがひとつ ほっぺがふたつ
ほっぺ ほっぺ ほっぺ ほっぺ
……ほっぷん!

おそらのうえで かみさまが
またまた パンを やきました
さてさて パクリと いけるかな?

むしゃむしゃ たべちゃった!

かみさま ほっぺも パンみたい
もぐもぐ あー おいしかった
……ほっぷん!


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