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2014年1月31日金曜日

ぼっちワンダーランド

ぼっちと ぼっちが 集まって
ぼちぼち踊ってみませんか
ぼっちは ぼっちで つうじあう
なれ合ったりしない
わたしぼっち
きみもぼっち
ぼっちワンダーランド

なんとなく 輪のちかく
まざっているよな フリなら上手
にこにこと 笑ってる間に
ハッ! どうして ひとりぼっち

わたしぼっち
なぜかぼっち
きみもぼっち
ほらねぼっち

ぼっちと ぼっちが 集まって
ぼちぼち踊ってみませんか
ぼっちは ぼっちで 変わらない
それがいいでしょ
わたしぼっち
きみもぼっち
ぼっちワンダーランド

なんとなく 話きいて
相づちを打つ それならプロ級
リアクション 大きめでも
ハッ! なんにも しゃべってない

わたしぼっち
かくれぼっち
あららぼっち
きゅんとぼっち

ほんとは だれもが ぼっちぼっち
こわごわ ぶるぶる してるでしょ
気づいたら ひとり なかまはずれ
そんな 夢に おびえてるでしょ

ぼっちと ぼっちが 集まって
ぼちぼち踊ってみませんか
ぼっちは ぼっちに だけ見える
世界があるから

ぼっちと ぼっちが 集まって
ぼちぼち踊ってみませんか
ぼっちは ぼっちの 道をゆく
ついてきていいよ
わたしぼっち
みんなぼっち
ぼっちワンダーランド

2014年1月29日水曜日

続・産後の睡眠不足考

 『産後の睡眠不足考』に時折、検索経由でアクセスをいただく。やはり辛い思いをされている方は少なくないのだろう。しかしかの記事は「こんなに大変なんだよ〜っ」というアピールがメインで、肝心の「どう乗り切るか」について触れていない。
 ダメじゃん(涙)。なのでここで改めて、私が講じた対策を書き記そうと思う次第である。眠れないのが辛いなら、解決策は寝ることだけだ。だから眠れないんだってば。そんな禅問答に対処する術を。

 命懸けの出産を終えたばかりのママに突きつけられる、義務と責任。昼夜なく世話を要する子のために、文字どおり四六時中、神経を張りつめて「気が休まる瞬間がない」のが、この時期のママさんだ。
 この辛さ、何に例えたらいいのか。仕事なら休日があり休憩も取れる。しかしママには休日も休憩もないのだ。こんな状態が続けば誰だってパンクする。

 だから、ママは「休憩」を取ってほしい。短時間でいい、育児の責任者という義務から解放され「このときだけは眠ってOK」という時間を作るのだ。
 その間の育児は、もう一人の責任者たるパパの担当である。ママに心身ともに元気でいてもらうための、当然の責務であろう。新生児のゆるゆるウンチにビビっている場合ではない。もちろん、安心して任せられる人がいるならパパ以外でも構わない。

 この「休憩」を、どのタイミングで取るか。業務(=育児)の妨げにならず、かつお互いの負担が最小限で済むタイミングを見つけたいところだ。我が家の場合は「休日の朝」だった。最初から決めたというよりは、自然とそうなった感じだ。
 パパが休みの日の朝は、ママが寝坊してもいい日。子が泣けばパパが抱き上げて、別室へ連れ出して相手をする。ママがゆっくり眠れるように。
 どうせ子が泣けば、ママは起きてしまう。それでもほんの少しの時間、責任の荷を降ろして二度寝させてもらうだけで、心も体も随分ラクになる。ママが笑顔になれば、家族が喜ぶ。ぜひ、ゆっくりと眠ってほしい。家族みんなの笑顔のために。

 何事も気を張りつめっぱなしでは、神経が参ってしまう。休憩が必要なのは、何も睡眠不足に限った話ではない。出産前と変わらず遊びに行くパパに、育児で家から出られないママが不満を溜める。よく聞く話だ。
 「週に一度は一人で街歩きしたい」「レディスデーには映画を観たい」「好きなミュージシャンのライブは逃したくない」……。何かひとつ「これだけは」という趣味を申告しておくと、家族も「うん、好きなんだもんね。息抜きしておいで」と送り出しやすいのではないかと思う。ぜひお勧めしたい。
 それでこそ、飲みに出かけるパパを気持ちよく送り出せるというものだ。え、ウンチも替えられないパパの教育法? ち、ちょっと考えるずら(←長野弁)。あの、とりあえず念を送っときます……。

2014年1月28日火曜日

自分より大事!?

 「自分より大切な存在ができました」……。子どもが生まれた芸能人らのこんなコメントを、私はずっと「うっそお」と訝しんでいた。いや「ウソ」は言いすぎでも、まあ飾られた表向きの言葉だろうと。

 だって、そうではないか。人間である以上、自分の体で感じることができるのは、自分の体が受けた苦痛だけである。「自分がいちばん大切」なのは自分勝手でも利己主義でもなく、人として至極当然だ。
 だから「我が子は自分よりも大事」というのも、まあ、親としての喜びや愛情を表現する比喩のようなものだと思っていたのだ。「ああ、そういうことか!」と腑に落ちたのは、自分が子を持ってからである。どうやら単なるキレイ事ではないらしい、と。

 母親が誰より子の状態を感じ取っているように見えるのは、ひとえに経験の成せる技である。誰だって母子ほどの濃い密度で他人と接していれば、気持ちを察するくらいはできるようになるに違いない。
 何より母と子は、元は一体だったのだ。出産で二つ身に分かれて以降も、しばらくは添い寝や授乳で密着状態が続く。自分が寒ければ子が寒くないかと気を揉み、自分がどんなに眠くても子が泣けば跳ね起きる。まるで身も心も連動しているかのように。

 加えて、母としての使命感がのしかかる。死なせてはいけない。まだこの世に適応していない、捕食も移動も自力ではできない命を、この世で生きていけるまでにしなければならない。まるで野生動物の母のような本能を、確かに体のどこかで感じる。
 自分はいいのだ。自分はもう、この世に適応している。出産可能な程度には若く健康で体力もある。少しくらい寝なくても、命に別状はない。しかし新生児の泣き声には命がかかっている。
 新生児は生きるために泣く。自分と見紛うほどに近しい我が子が、命の限り泣いている。ほとんどの母親は、自分の睡眠より子の世話を優先するだろう。「自分(の満足)より子ども(の満足)が大切」だと思うだろう。それは「自分がいちばん大切」なのと同じくらい、人として至極当然なのだろうと思う。

 成長しても、何かと「自分はいいけど子どもは……」という場面に遭遇する。自分の食事はテキトーでも、子にはきちんと食べさせねばならない。子が健康で快適に過ごせていると思えて初めて、自分に目を向ける余裕ができる。
 「自分より大切」とはそういうことで、親になるとはきっとそういうことで、それは母の愛とか母性だけでなく意地とか見栄とか世間体とか、色々なものが混じった複雑な、人間らしい感情で、本当に子どもというのはいろんな感情を教えてくれるなあと、つくづく幸せな気持ちになる。

2014年1月27日月曜日

明日

明日が楽しみな君
明日が怖い私

午前三時
明日が怖い私は
今日を極限まで引っぱる

伸びきったゴムのような時間を
さらにずるずると引きずりながら
君の寝息に聞き耳を立てる

今日という日がまだ終わりませんように
祈るように聞き耳を立てる

明日を待ち望む君
明日から逃げ出したい私

明日への扉に掛かる鍵
勇気 希望 諦め 忘却
どの鍵も錆びてしまって
直す気力もない私

大丈夫 君には素敵な明日が来る
それで十分
それならいいやと
今日に閉じこもる私

明日を夢見て眠る君
明日を恐れて眠れない私

君の寝息が泣き声に変わる
君の泣き声が
伸びきってしまった今日から
私を明日へと引きずってゆく


2014年1月24日金曜日

Mさんの復帰

 ズバッと直言の著名司会者Mさんは復帰したいらしい。それなら僭越ながら、私にアイデアがある。復帰するならそれからにして頂きたいと、一視聴者、一人の母として、お願い申し上げる次第である。
 まず、親の気を引きたくてヤンチャする中学生レベルから成長できなかったカワイソウな息子さんと、ちゃんと向き合ってあげてほしい。腹蔵なく語り合い、怒号と涙の中で親子の雪解けを果たすのだ。もちろん、カメラの前で。

 当然でしょう。言っちゃナンだが視聴者にとって、すべてはショウである。その世界へ戻ろうというのなら、落とし前は付けねばなるまい。すべて見せ物として昇華してこそ、彼の次のステップは開かれる。
 重々しいドキュメンタリーもいいが、テレ東の温泉番組のノリでもいい。子に目配りできなかったオノレの半生を恥じ、息子にキッチリ頭を下げる親父。偉大な父を持つ苦難を味わいつつも、利点も享受してきたことを改めて自覚し、不肖を詫びる息子。
 二人は涙し、思い出を語りながら酒を酌み交わす。おお、いいじゃないか。いい番組になりそうだ。
 そして、親子揃って奥様の墓参りに行ってほしい。仲良く墓の手入れをしながら、おそらく生前は御苦労をされたであろう奥様に涙ながらに詫びる姿を、世間の主婦層にキッチリ見せる必要がある。

 これまでの家族への態度を反省し、今後は息子や孫を愛する良きオヤジとして生きる。その姿勢と決意のほどを、しっかり世間に植え付けねばなるまい。それでこそスポンサーも安心できるというものだ。
 息子世代との親密な交流は、新たな時事問題への気づきに繋がるだろう。酒焼け顔のセクハラオヤジの戯れ言ではなく、往年の著名司会者が子や孫を思って放つ提言であれば、多くの人が耳を傾けるに違いない。元来、メディアで語ることに関して図抜けた才能をお持ちなのだから。

 そうすれば「ご意見番」への道も開けるのではと思うのだが、どうも報道を見るに、関係者に挨拶回りだの講演だの、かつての栄光の範囲内でしか物事を考えておられないように見受けられて悲しい。
 息子との和解、そして亡き愛妻への謝罪。なに、ショウでいいのだ。テレビの向こうの人間の本心なぞ、視聴者に知るすべはないし知ったこっちゃない。

 一連の騒動における彼の言動から透けて見えたのは、長年にわたって家庭を、育児を、奥様を顧みてこなかった男の姿ではなかったか。彼の世代では正直、珍しくもないタイプだが、おそらく多くの主婦にとって、そんな苛立たしい男の顔を見るのは、自分の夫だけで十分のはずである。
 だから復帰にあたってまず彼がしなければならないのは、そんな主婦層の嫌悪感を解くことではなかろうか。ラジオで毒吐く彼にあまり興味は持てないが、息子と妻に心から詫びる彼の姿なら、私は見たい。きっと世間も注目するだろう。復帰プランとして悪くないと思うんだが、いかがでしょう?

2014年1月22日水曜日

レジの様式美

 時々「保育園ママ=働く母」「幼稚園ママ=専業主婦」と暗に断定している文章を見かけるが、数十年前ならともかく今はそんなに単純ではないと思う。
 パートやアルバイトで働く幼稚園ママは少なくないし、「働きたい」という声もよく聞く。ただし状況はやはり厳しいらしい。雇う側は少しでも長時間働いてほしいが、ママはとにかく時間がない。子どもを見てくれる人がいなければ、身動きが取れない。

 ママの定番のパート先に「スーパーのレジ打ち」がある。「いざとなったらレジでも打って……」なんて言い回しがあるほど「誰でもできる仕事」扱いをされがちだが、本当にそうなんだろうか。
 レジは金銭を扱うから、何かと神経を使う。スーパーは取扱品目も多く、どれもバーコードをピッとやれば済むわけではなさそうだ。レジ入力がイレギュラーな品にはその都度、対処しなくてはならない。
 会計時の商品の扱いにも細かなルールがあるようだ。生モノはカゴの外に置いて最後に戻す。割れ物はパッキンで包む。弁当を買えば割り箸の案内をする、電子マネーやポイントカードの処理、子連れや高齢者の客なら、代わりにカゴを運ぶ。

 立ち仕事の辛さもある。客がいないときは、備品の確認や清掃。客が来たら、しっかり目を見て「いらっしゃいませ」。手はヘソのあたりに置き、眼を伏せて腰を折る。素早く、けれど丁寧に。
 カゴを引き、商品を取り上げ、品名を読み上げながら会計をする。スムーズな所作でお金を受け取ってお釣りを渡し、再び手をヘソに当てて「ありがとうございました」と一礼する。
 私にはスーパーのレジ打ち経験はないが、これまで何千回と目にしてきた光景だ。マニュアル通りこなすだけでも大変なのに、親しげに子どもに話しかけ、ママを励ます一声を掛けるベテランさんもいる。都会の孤独な新米母だった私は、彼女らと会話するためだけにスーパーへ出かけたことすらある。

 お札を数える指先に一瞬、目を奪われる。非日常な金額を扇状でバサッと数える銀行員の凄みはないが、日常の場にふさわしい控え目な美しさ。レジの中にいたのは、20代と思しき若い女性だった。年齢の割に落ち着きがある。ママさんかもしれない。
 一連の仕草はあまりにも自然で、裏に存在するはずの数々の決め事をみじんも感じさせない。たとえば未経験の主婦が、ここまで流れるようにレジが打てるようになるまで、どれくらいかかるのだろう。無愛想で目も合わせない客に向かって、手を胃に当てて笑顔で会釈できるようになるまでどれくらい。

 最近は機械によるセルフレジも増えた。機械は正確だし手順もスムーズだが、あまり美は感じない。
 そこに人間がいるだけで、なぜこんなに美しいのだろう。会計を待ちながら、そんなことを考える私。お札を数える女性。指先が、少し荒れている。

2014年1月21日火曜日

夢 ~another world~

ぼくねえ 今日ねえ
ゆめをみるときに
おかいもので お金がないっていう
ゆめをみるんだよ

あのね
お金がないと
なんにも買えないの
そしたらママ こまるんだよね

ぼくねえ
ようちえんいくときに
ママがカバンわすれて おうちに取りにいった
ゆめもみるんだよ

ママ
カバンわすれちゃだめだよねえ
だってぼく こまるんだよ
泣いちゃうかもよ

ぼくねえ 今日はねえ
よるになったら
おたんじょうびかいの
ゆめをみるの

おたんじょうびかいは
ぼくと れんくんと りこちゃんが
ぶたいにあがって
みんなでハッピーバースデーうたって

そしたらぼくねえ
ドクターイエローのうんてんしゅになりたいですっていうの
うん そうなの
そしたらママは ビデオをとるの

ねえママ
ビデオわすれちゃダメだからね

2014年1月20日月曜日

現実を超えて

 以前に住んでいた街に、不思議な建物があった。年齢も性別も見事にバラバラな子どもたちが、いつも一緒に遊んでいる。中庭に置かれたバスケットゴールから、楽しそうな声が外まで響いてくる。
 前を通るたびに微笑ましく眺めていたが、何の建物だろうと不思議にも思っていた。いわゆる児童養護施設だと気づいたのは、ずいぶん後のことだった。

 施設の子どもたちというと、私はミュージカル映画『アニー』(1982 )を思い出す。禁酒法下のアメリカの孤児院で暮らす孤児たちの物語だが、ここの院長であるミス・ハニガンもまた強烈だ。
 独身で酒浸りの中年女性。権力者には媚びる一方、孤児たちには口汚い言葉を投げかける。孤児たちを呼ぶときは「pig-doroppings!」。豚の落とし物、すなわち豚のフン(!)。「誰もお前らなんか愛しちゃいないよ(Nobody loves you!)」と毒づきながら、孤児たちには「I love you Miss Hannigan. 」と連呼させる、信じられないオバチャンである。
 ミス・ハニガンに罵られ、こき使われる孤児たち。孤児院中を雑巾掛けしながら彼女らが歌う『It's the Hard-Knock Life(つらい生活)』は、しかし悲惨な歌詞に反して実に軽快なナンバーだ。私はこのダンスシーンが大好きで、観るたびに子どもたちの歌とダンスの素晴らしさに圧倒されてしまう。

 『アニー』は、コメディでありファンタジーだ。下品なミス・ハニガンもどこか滑稽で愛せるし、ボニー&クライドを百倍薄めて間抜けにしたような悪役カップルも憎めない。勧善懲悪で舞台も現代ではなく、筋立ても現実にはあり得ない夢物語。だから、安心して楽しめる。孤児院の悲惨な描写も、むしろ孤児たちの今後の活躍を予感させてくれる。
 現実を描いても、現実には敵わない。現実を超えた何かを描かなければ、現実には届かない。この世にファンタジーが存在するのは、それが必要だからなのだなぁ、と時々思う。

 高校生の頃、アメリカでアビューズド・チルドレン(被虐待児)の施設を見学した。悲惨な境遇に暮らす暗い瞳の子たち、という私の先入観はアッサリ打ち砕かれた。彼女らはオシャレを楽しみ友人と笑い、私たちの折り紙実演に「またオリガミ?」と文句を言うほど(日本人訪問者の定番らしい)生き生きしていた。漠然とした「可哀想な子どもたち」が、私の中で生身の人間として立ち上がった瞬間だった。
 アニーの両親を探すため、大富豪ウォーバックスは人気ラジオ番組に出演する。トボケた司会者が歌う番組のテーマソング『You 're never fully dressed without a smile』も大好きなシーンだ。いかにも英語らしいコミカルで洒脱な歌を、ミス・ハニガンの目を盗んでラジオを聴いた孤児たちも、楽しそうに歌う。ここにも生身の息吹がある。

2014年1月17日金曜日

通園グッズへの道

 通園グッズとは、レッスンバッグ(絵本バッグ、おつかい袋など呼称は様々)、シューズバッグ(上履き入れ)、お弁当袋などのこと。入園の前に、これらを準備することになる。
 形やサイズも細かく指定されるので、結構大変だ。暗に手作りを要請する園も少なくない。「手作りはお母さまの愛情です」とか何とか。お、おう。

 お金出して買ったって愛情じゃんと本音では思う、21世紀の母たる私であるが、波風立てるのも面倒だと思うトシでもある(涙)。まあバッグ(トートバッグ)やお弁当袋(巾着)は、縫いモノとしては相当にカンタンな部類だ。ご覧のブラウザの検索窓に[通園バッグ]等と入力していただければ、無料のレシピがわんさか出てくる。本当にいい時代である。
 私に書けるのは小ネタ程度、しかも独断と偏見であるが、上品な一般論ではなく個人の偏見が読めるのが、個人ブログの利点つうことでひとつ。

一、高いミシンは要らない。入園グッズに限らず、何か作ってみたいけどミシンがないから……、という話を本当によく聞く。迷って躊躇するくらいなら安いものでいいと思う。セール期を狙うのもいい。
 シンプルな機能の家庭用ミシンで十分なので、あとは糸かけが簡単で分かりやすいものを選ばれるとよいと思う。ラクに楽しく使い続けるためにも。

二、初心者ほど裏付きオススメ。バッグ類には表布一枚仕立てと裏(中袋)付きがあるが、縫い目に自信のない人、面倒臭がりな人(私です)ほど裏付きが○。何故なら、ぜ〜んぶ隠れちゃうから。布端や糸の始末がないのでキレイだし楽なのだ。用意する布は増えるが、裏布を何にするか考えるのも楽しい。
 表布は軽くて丈夫なキルト地が一般的らしいが、好きな布にキルト芯を貼ってもいい。手芸店で相談すれば、それは熱心に(笑)教えてくれるはずだ。

三、「はじめて本」はココをチェック。「はじめてママの」「一日でできる」。タイトルにこんな言葉が入った本を買うときは、できれば「作り方」のページをチェックしたい。大きな声では言えないが、中身はとても初心者向けとは呼べない本も見かけるからだ。ま、色々とオトナの事情があるのだろう。
 作り方を見て、自分にもできそうかイメージしてみる。ちなみに先に挙げたタイトルは、あくまで架空例とゆうことでひとつ。

 通園グッズ以外にも「(他の園児のと区別するため)スモックにアップリケする」「(大きめサイズを買うので)袖の丈つめをする」等々、裁縫を求められる場面は結構多い(ああ面倒)。ま、テキトーでも何とかなる(た、たぶん)。私もテキトーだし。
 全部「実母におまかせ♪」な人もいるだろうなあ。知人に「全部ダンナにおまかせ♪」なママがいるけど。父の愛が詰まった通園バッグ。す、すてきだ。

2014年1月15日水曜日

戻れない

ぼくは赤ちゃんじゃありません
四さいのりっぱなおとこのこです
りっぱでかっこいいおとこのこです
かわいいじゃありません
かわいいはおんなのこです

ぼくはずっと四さいになりました
あしたもずっと四さいです
三さいにはなりません
おもらししても四さいです
ぼくは四さいだから
おもらししても赤ちゃんじゃありません

四さいはおもらししなくて
でも ぼく四さいだから
赤ちゃんもおもらししません
おもらしは四さいです
赤ちゃんじゃありません

2014年1月14日火曜日

理想と標準

 「理想の奥さんになれなかった」と言って離婚したタレントさんがいたが、私の知人にもこんな人がいた。彼女のダンナさんは市販の「ごま豆腐」が大好物で、彼女もよく買ってきては食卓に出していたが、あるとき彼女は私にこう呟いた。「買ったものを出すだけなんて、手抜きじゃないのかなあ……」。

 私は一瞬、本気で意味がわからなかった。ダンナさんの好物を買ってきて食卓に出す。妻の愛情でこそあれ、そのどこが「手抜き」なのか。
 しかし気持ちは分かる、という奥樣も多いのだろう。これは「市販品は手抜きか否か」という話ではない。なぜ彼女は、誰に指摘されたわけでもないのに(ダンナさんは喜んで食べている)、自分で自分を「手抜き」だと責めているのか、という話である。

 彼女を責めているのは言うまでもなく、彼女がこれまでの人生で築き上げた「理想の妻像」であろう。理想に縛られている人は、理想に支えられてもいる。だから理想を手放せない。心の拠り所になっているから、そこから外れると不安に苛まれてしまう。
 とはいえ友人の間で「家事をしない妻」として知られる私に偉そうなことは言えない。むしろお前は理想を持ちやがれ、と思われているかもしれない。
 いや子どもが生まれてからは頑張ってますよ。何せ世話しないと死んじゃうしケーサツにも捕まるし、あんまりグータラ母ちゃんじゃ子どもが可哀想だし。いや子どもってスゴイ。オチはそこかい(笑)。

 かように厄介な「理想」だが、出産後に私が苦しめられたのは「標準」だった。予定より数週間早く生まれた息子は、身長も体重も標準以下どころか、成長曲線下限のさらに下を這い回っていた。
 有り難くも健康に生まれたというのに、「標準」が不安だらけの新米母に襲いかかる。一向に体重が増えず、助産師さんと繰り返した合い言葉は「目指せ3キロ」。「標準」なら最初から3キロ超えてるのに、と思うと不憫だった。棒のような足を見て、プクプクした赤ちゃんと比べずにはいられなかった。
 首座りもお座りもハイハイも、運動発達はすべて「標準」の数ヶ月遅れ。「標準」ではもう立ってる月齢なのに、まだ立たない、まだ歩かない。乳児期はとにかく「標準」に振り回されっぱなしだった。

 歩けるようになり、ひと通りの運動発達が終わると、ウソのように楽になった。「標準」は相変わらず存在するのに。一旦その鎖から抜け出すと、苦しんでいた自分が滑稽にみえる。ヘンな話だ。
 だけど、懲りずにまた苦しむ日がきっとくる。意識せずにいられたらラクだけど、背伸びせず、人と比べず生きたいけれど、そんな人生を、たぶん真には望んでいないのだと思う。私も、息子にも。

2014年1月9日木曜日

続・妊婦ダイエット

 妊婦ダイエットに多くのアクセスを頂いている。どうすれば痩せるのか、みなさまの関心はその一点のはずだが、読み返してもよくわからない(!)。
 自分で言うな、というお約束ツッコミを入れつつ(涙)、改めて書いてみたい。フツーに健康な人なら誰でも痩せられると思うんだな私は。いやマジで。

 前にも書いたが私は妊娠前、自己流ダイエットで八キロ減量した。妊娠期の過ごし方も、この体験がベースになっている。
 ただ、ハッキリ言って目新しいことは何もない。ラクして痩せる術でもない。「妊娠期に健康的な食生活を心がけたら、結果として痩せた」という話である。その点をご承知おき頂ければ、妊婦以外の方にも有用かと思う。
 しかし、やはり妊婦の方は有利だ。何しろ腹には大事な我が子がいるのだ。この子を健康に産みたい、その思いが力になる。生かさない手はないと思う。

○食事は腹八分目。バランスよく、規則正しく。
 腹八分目というのは、要は「お腹いっぱいになる手前で終える」。食事の際には常に[主食(ご飯など)][タンパク質(肉・魚・乳製品)][緑黄色野菜]を意識。「もう少し食べたい」と思ったときは野菜を。便秘対策のためにも食事はしっかりと。
○カロリーと塩分を意識する。
 今どきの食品にはカロリー及び塩分量が記載してある。確認するクセを付けるだけでも違うと思う。ただし「カロリーゼロ」も無制限に摂るのはNG。
○マタニティビクス系は徹底活用すべし。
 産院や自治体で参加できるものが多数ある。楽しいので私は家でも時間を決めて、好きな音楽をかけて踊っていた。「やっていた人は出産時の大変さが確実に違う」とは通っていた産院の助産師さんの弁。
 普段は運動ギライでも「子どものため」「少しでもラクな出産のため」と思えば切実に取り組める。

 「そんな基本は分かっている。できれば誰も苦労しない」と思われる方は、妊娠期は「健康的な生活を送ること」を最優先にできる絶好のチャンスだということを再認識していただくと良いと思う。人生には普通、ダイエットよりも大事なことがある。仕事や学業、友人や恋人との交遊。普段であればダイエットの優先順位は、どうしてもそれらの下になる。
 ただし妊婦はいうまでもなく、減量目的のダイエットはNGである(当然)。私が痩せたのも結果論だ。健康不安があるときやつわりのときなどは、くれぐれも専門家の指示を仰いでいただきたい。

 私の妊娠期の体重増加は五キロ。子の分があるので見た目は明らかに細くなった。ただし妊娠の経過は十人十色。このダイエットの本懐は、健康的な生活を体感できる点にある。栄養やカロリーを意識する経験は、産後のダイエットや育児にも役立つ。
 誰憚ることなく「ダイエット」に専念できる。多忙な日々を送る現代女性にとって、そんな機会は多くない。みなさまの健康的な妊婦ライフを願って。

2014年1月7日火曜日

氷点下の国から

 母が作ったコートよりも、母が作ったリュックよりも、母が作ったマスクに大喜びの息子。表で会った顔馴染みのご近所さんに、さっそく声を張り上げる。「これ、ママが作ったマスクなの!」

 ……手間、他の百分の一くらいですが。「大人と同じ」が、とかく嬉しいお年頃。同じだけどサイズだけが小さい、そのミニチュア感が親としてはたまらなくカワユイ、もうすぐ四歳を迎える息子である。
 いつもはテレビを流し見しながら、ソバを食べたり、ゲームをしたり。そんな大晦日が今年は一変した。カウントダウンの最中も、腰を屈めてミシンに向かう私。帰省用に息子のリュックを作るつもりが、これまで時間が取れなかったのだ。
 間に合わないかもしれない。それでも自分専用のリュックでお出かけさせてあげたくて、唸るサブちゃんを尻目に黙々とミシンかけ。ああ、母の愛かしら。いや、母の意地だな(エゴとも言う……)。

 余談だが、手芸をするメイン層は可処分所得の多い専業主婦だと何かで読んだのだが、所得が少なく専業主婦でもない私はどの箱に入るのか。言い換えれば手芸好きは「ヒマでお金がある人たち」ということらしいのだが、時間が取れずに睡眠を削って朦朧とミシンに向かう私は一体どの箱に(以下略)。
 徹夜でゲームと徹夜で手づくり、自分にとっては差なんてないと悟った午前三時(ね、眠い)。

 話がそれた。帰省である。結婚とは新たに故郷が増えることで、私の場合は信州・安曇野が新しい故郷になった。観光地として名高い風光明媚な場所だ。
 「Mountains!!」。在来線に乗り込んできた観光客らしき外国人カップルが、感嘆したように叫ぶ。車窓から眺める冬の北アルプスは圧巻で、息を呑むほどに美しい。この路線がそもそも観光スポットなのだ。澄み渡る青空に映える常念岳。まさに眼福。しかし古今東西、美しいものにはトゲがある。

 「明日は10℃くらい行くかや」「8℃くらいじゃない?」。数年前、初めて正月に帰省したときの義父母の会話。そんなもん? と思った私が甘かった。義父母の会話からは「マイナス」が抜けていたのだ。当たり前すぎて(!!)。マイナス10℃……冷蔵庫!?
 街を歩けば、あまりの寒さに顔が強ばる。顔を覆うマスクが必要ではと思いきや、周囲にそんな人はいない。店先にお湯を撒く姉ちゃんは超ミニにハイヒール。あ、あり得ん。ここは日本なのか!?

 失礼な、と相方に叱られたが(すいません)、それくらい印象は強烈だった。私も富山に祖母がいて、雪国の冬は多少は知っているのだが、安曇野はまたベクトルの違う寒さで骨の髄まで凍りそう。
 冬期にかの地へ向かう、都会暮らしで体の鈍った方は、寒さ対策を万全に。新年にキリリと気合いが入ります。ええ今年もバッチリです(涙)。あ、子どもはわりあい平気みたい。一応、もっこもこに着せたけど。妙に太って帰京したけど(おモチ……)。

2014年1月6日月曜日

凡庸な

凡庸な歌は
凡庸な人たちを励ますためにあるのです

今という時を必死で生きる
すべての清廉で凡庸な人たちのために

いつの世も凡庸な人たちで
世界というのはできていて
凡庸であるからこそ
大勢の人の心に届くのだと

だから
非凡を自称する天狗者たちよ
黙って奉仕しなさい

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