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2014年5月30日金曜日

目には見えない

 子どもの頃、近所の教会へよく遊びに行った。クリスチャンだったわけではない。たまたま、近隣の子らの遊び場になっていたのだ。
 ちなみに私は仏教系の幼稚園に通っていた。園で経文を読んだ帰りに、教会へ行って賛美歌を歌うのだ。何とも日本的な(笑)幼少期であった。

 教会では聖書を一節読むと、挿絵のカードが1枚もらえた。私が嬉しそうにカードを集めているのを見て、母がかぎ針でカードケースを編んでくれた。裁縫が不得手な母が作ったそれは、少し歪んでいて、色も冴えない暗いオレンジ色だった。しかし、そんなことは大した問題ではないのだ。母が「自分のために」作ってくれたのだから。
 それが嬉しくて、ケースにカードを収めるとき、いつも少し幸せな気分になったのを覚えている。読んだ聖書の内容は忘れてしまったけれど。
 手作りが母の愛、なんていう一面的な表現は好きじゃないけど、母が自分のために手間をかけてくれた、それは確かに小さな子どもにとって、甘くて幸せな記憶なのだな、と思う。たとえ口では「そんなダサいの、やだ」なんて言ったとしても。

 息子が「一緒に遊ぼう」としつこく誘う。仕方なく息子の横でレゴブロックを弄っていると、不格好で不思議な物体ができあがる。己の才能のなさが情けない限りだが、しかし息子は大喜びだ。
 「ママ、今日もブロック遊びしよ」。不器用な私は正直、気が重いのだが、嬉々としてブロックに向かう(私より遥かに上手だ)息子を見ていると、遊びの内容ではなく「母が自分を見て、場を共有してくれる」ことが大事なのだな、と気づく。
 個々の出来事が、どれほど記憶として残るかは分からない。けれど「母が、自分のために」という幸福感は、きっと心に層のように積み重なっていく。なるべくならしっかり刻んであげたい、と思う。

 母がいない台所。休日で下着姿の父がフライパンを操る。「お父さんも、下宿していた頃はね」。得意げに喋る父を見守る子どもたち。皿の上の目玉焼きには、何と黄身が二つ。母ではあり得ない贅沢だ。
 目玉焼きは端が焦げていたけど、添えられたキャベツはパサパサだったけど、そんなことは大したことではないのだ。父が自分たちのために料理をする、そのスペシャル感に胸躍らせる子どもたち。
 母は父について「(育児を)何もやってくれない」とよくこぼしていた。しかし私の胸には、子どものために労をとる父の姿がいくつも残っている。父は、そして母も、確かに自分たちを愛している。そう思えるのは、何と幸せなことだろう。
 目には見えない「愛というもの」は、モノや記憶にまつわって、静かに佇んでいる。時おりふと立ち現れて、私たちに今を生きる勇気を与えてくれる。

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