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2014年6月27日金曜日

coming soon

ねえ ぼく ねむいんだけど
あのね
もうすぐ ゆめがはじまりそう

くまさんと かえるさんと わんちゃんは
さきにいって まってるの
パパもね あとからくるの
ママもくる?
きてもいいよ

みんなで いっしょにあそぶゆめなの
あのね おふねにのるの
すっごくゆれるおふねなの
でも ぼくねえ
ちっともこわくないんだよ
すごいでしょ

それから
おそとで ごはんたべるの
ぼくね
サンドイッチと オレンジジュースあじのみず
それでいいよ
だって ぼく
だいすきなんだもん

うん そうだね
さっき かえりのでんしゃで
ちょっとだけ ゆめ みたね
よこくへん?
うん そう それそれ
ねえママ よこくへんってなに?

あ だめだ
もう はじまりそう
ねえ パパはあとからくる?
ぼく パパといっしょにサッカーしたい
うん そう ゆめのなかで
ママも きていいからね
ぼく さきにいって まってるからね

じゃあ あとでね
うん おやすみなさい


2014年6月19日木曜日

いつもと違う日

 雨の詞を書いたことがある。可愛らしい傘を手に、子どもたちが踊る。雨の日は、お外へ出ようよ。いつもと違う景色、ワクワクするね。そんな詞だ。
 この頃は、まだ子どもがいなかった。母となった今、息子や他の子たちの様子を見ていると、やはり子どもは雨が好きなのだなあ、と感じる。

 ところで、雨が好きな大人は多くはない、と思う。「雨を眺めるのが好き(自分は濡れない場所で)」な人はいても、少なくとも「どしゃぶりの中、全身びしょ濡れで幼稚園児を送迎する」ことが「好き」な人は、たぶんいない。いたら代わって(涙)。
 まったく、こんなことにも人間は慣れるらしい。雨の中、濡れっぱなしで(子は雨カッパ)自転車を漕いでいると、道行く人からの「大変ねえ」という同情に満ちた視線を時折いただく。が、当の本人は「もうカッパとか面倒だし、濡れたら着替えればいいし」という境地にいるので、お気遣いは不要である。まあ目障りかもしれませんが。

 大人にとっては退屈な日常の延長でしかない雨が、まだ四年しか生きていない息子には、心躍る非日常になる。長靴に傘に雨カッパ。どれも、雨の日だけの特別な装いだ。「きょう、カッパ着る?」「傘さす?」そう尋ねる息子の顔が、期待に輝いている。
 雨足が強い日は、さすがに自転車を諦めて、傘を並べて家を出る。自分の傘を傘立てから取り出すところから、自分でやらなければ気が済まない。玄関を出て、得意気に傘を開く。少し力が要るので、時々手間取る。手伝おうとすると烈火の如く怒る。

 傘をさしたら、いざ雨の中へ。傘に当たる雨の音。視界は狭いし、両手で傘を持つからママと手もつなげなくて、本当は少し怖い。ドキドキしながら歩く。
 ほら、水たまり! 長靴でピシャッとしたいな、とママをちらり。ママは「しょうがないなあ」っていう顔で見てる。ピシャピシャ。楽しい!
 あ、アジサイ! ぼくは青いのが好き。ママはピンク? ぼく幼稚園でアジサイの絵を描いたよ。花の色はピンクにしたの。ママが好きなピンクだよ!

 「♪おーたまじゃくし、足が出て手が出て……」大声で歌いながら歩く息子の脇を、駅へと急ぐ人たちが追い越してゆく。彼らに混じる、小さな傘。「あ!」。おともだちを見つけた息子が叫ぶ。
 息子より体の大きな彼は、大きな傘を片手でヒョイ。その向こうには顔なじみの女の子。傘は持っているのに、むしろ濡れるのが楽しくて雨に身をさらす彼女を、ママがハラハラ見守っている。
 誰かが捕まえたおたまじゃくしはカエルになって逃げちゃったけど、まだまだ雨の日は続く。入園前に買った傘も去年買った長靴も、もう小さいみたい。新しい雨具を買わなくちゃね。君も、ママも。

2014年6月13日金曜日

男前で行こう

 男前、という言葉を聞くと、私は人気漫画『有閑倶楽部』に出てくる一節を思い出す。警視総監である倶楽部メンバーの父親が、暴漢に顔を殴られる。痛々しく腫れ上がった頬を見た、やはり別のメンバーの父親(二人は旧知の仲)が、こんなふうに言うのだ。「あれまあ、どうしただ。男前になって」。

 男前という、字面だけ見れば今でいうイケメンに近い言葉を、顔を腫らした男性に対して使う。暴漢に襲われるという惨事に遭った男性への気遣いと労いが、そこには含まれている。向こう傷を讃える昔ながらの価値観もあるかもしれない。
 子どもの頃に読んで以来、この言葉の使い方にすっかりシビれてしまった私は、自分でも使ってみたいと機会を伺ってきたが、なかなか顔を腫らした男性に遭遇できず、会っても「男前になりましたねえ」などと言えるものではない。やはりあの台詞は、時宗さんと悠理の父ちゃんの仲あってのものなのだ。

 男前という言葉には精神性が含まれる。そこが「とにかく顔はイケてる(中身はともかく)」という意味合いの強い「イケメン」とは異なる。
 芸人の松本人志さんが著書『遺書』(1994 )の中で、お笑いに殉じる姿勢を貫く芸人さんを「オットコ前」と賞賛したことは、当時かなり話題になったのでご記憶の方も多いだろう。ここで讃えられているのも、まさに精神そのものといえる。
 イケメンなどという言葉を使わない世代の方は、単に美男子という意味でも「男前」を使う。けれどそこには「男の本質は顔に出る」という価値観が、やはり横たわっているように感じる。女もだけど。女は化けるから(笑)。

 スーパーに日参するママさんにとって、最も馴染みのある「男前」は、たぶん「豆腐」。あの力強い(?)パッケージは目を引きますからね。「男前アイロン」というのもあるらしい。もちろんハイパワー高スチームが売りだ。
 「男前ブラック」という名前がつけられた布地で、息子用のポロシャツを作る。「ぼくのふく作るの?」「おとこまえなふく?」。そう。男前な服を着て、男前になってね。どちらかといえば丸顔童顔(いや四歳児ですが)の息子に、淡い願いを託す母。

 歩道でいきなり駆け出してつまずいてズデンと転んで、オデコに立派な擦り傷を作った息子。子どもの擦り傷は勲章だ。「男前になったねえ」。かねてから念願の台詞を、ついに口にする私。
 見れば園のお友だちにも「男前」な子がチラホラ。「顔から転ぶ前に、なぜ手をつかない(怒)」という母ちゃんたちの嘆きが聞こえてきそうだが、守りに長けるより前のめりに生きてほしい、そう願ってしまう母である。超のつく慎重派だけどね(涙)。

2014年6月6日金曜日

街を歩けば

 名前を聞けば誰もが「まあ、オシャレねえ」と言いたくなるような街で、小学校の運動会に遭遇した。
 雑誌やテレビでおなじみの、素敵なショップやカフェが立ち並ぶ表通り。その一歩裏へと入るだけで、あまりにも「普通の暮らし」が存在していることに、迂闊にも驚いてしまう、そんな休日。

 どんな街にも普通の住民がいて、普通に当たり前の暮らしがある。理屈では分かっているのに、先入観とは恐ろしい。そこは区立小学校で、体操着姿で駆け回る子どもたちも、校内にレジャーシートを敷いて弁当を食べる保護者の方々もその服装も、この国のどこにでもいる普通の家族と何ら変わりはない。
 かろうじて、電柱に記された地名表示の華やかさが、ここが憧れの街であることを思い出させてくれる。坪単価の猛烈に高いエリアで普通に暮らす人々。先祖代々の地元の方? まあ、高額納税者が何のてらいもなく「しま○ら」を着るのがこの国だけど。
 隣には、やはり区立の保育園。鬱蒼とした緑に包まれた広い敷地に、思わずため息。緑の多さは、都会地ではむしろ贅沢さの基準になる。
 周囲には築三十年は超えていそうな、年季の入ったマンションが目につく。どれも外壁は美しく塗り直され、ヴィンテージな雰囲気を醸し出している。おそらく古くても価格は高いだろう。

 以前、アメリカ出身の方に聞いた話。「金持ちと庶民が隣同士で、お祭りがあれば一緒にはしゃぐ。それが日本のいいところだと思う。アメリカでは金持ちと庶民の居住地はキッパリ分かれる」。イギリスでも、どのストリートに住んでいるかで、経済的に属する層が明確に区分されると聞いたことがある。
 日本にも高級住宅地はあるけど、確かにそこまで厳密ではないかも。むしろ、普通の住宅地に突然、想像を絶する豪邸が出現したりする。地主さん? いろいろ無責任に想像しながらの街歩きは楽しい。
 先祖代々の土地だから。たまたま昔から住んでいたから。いろんな理由で、人はそこに住まう。変わるのは街であって人ではないのだな、なんて思う。

 子育てを終えた両親が、老後の快適さを考えてマンション購入を検討したとき、富山に住む祖母が言ったという。「そんな箱買うて、どうすんがけ?」。
 さすが、県民一人当たりの畳数が日本一多い土地柄である。祖母の家は決して豪邸ではないが広大だ。廊下でキャッチボールができる(←本当)。息子がドタバタ走り回っても、近所迷惑を気にする必要はない。代わりにコンビニへ行くにも車が必要だけど。
 ここで生まれ育った祖母は、それでも何の不便も感じていない。その娘である母は、この雪深い土地を離れて遠方へ嫁いだ。そのまた娘である私は、さらに首都へ出た。そこで、首都であろうがなかろうが「東京が地元であり故郷」という人たちと交わり、街というものについてしみじみ考えている。
 息子は東京生まれだが、どこで育つかはまだ未定だ。好きな場所で好きなように生きてくれればいい、と思う。自分もそうだったように。

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