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2014年7月26日土曜日

絶望玉

いつの間にか
胸の奥に
居座っている絶望玉

完全なる形
その球形
隙ひとつ見当たらない

いつの間にか
胸の奥に
突き刺さっている絶望玉

円く重い
その玉は
重しとなって
君を縛る

どこへ進んでいるつもりなのか
何を欲しているのか
ただ ひたすらに膨れ上がる

いつの間にか
細胞の隅々に
巣食っている絶望玉

黒光りする
その欠片
ときに七色の輝きさえ放つ

いつの間にか
血管を縦横無尽に
かけめぐる絶望玉

疾走感に身を委ね
安らぎに酔いしれる
いびつな希望など
存在していないかのように

いつの間にか
君自身を
染め上げる絶望玉

絶望という美しき完全体の中で

君はただの人間になる


2014年7月19日土曜日

個性という贅沢

 近所に小さな自動車修理工場がある。工場と言っても住宅街のど真ん中、小さなビルの一階が作業場になっているような、都会によくある町工場だ。
 いつも修理中の車が数台、置かれているのだが、その車がとにかく凄い。昔の外国映画に出てくるような、デザイン性の高い車ばかりなのだ。特に車に興味のない私ですら、つい目を引かれてしまう。

 つい昨日も、ごく普通のTシャツ姿の従業員らしき男性が、派手なオープンカーを操っていたが、レアな外国車の修理工として、その世界では知られた存在だったりするんだろうか。いや知らないけど。
 格好いいなあ、と思いながら、ふと周囲を見る。集合住宅の前にある駐車場に、ズラリと車が並んでいる。メーカーも車種も違うのに、どれも似ていて無個性で、何だかとても退屈に思えてしまう。

 大量生産の時代に生まれ、その恩恵も受けてきた世代として、量産品を否定するなんて不可能だ。おかげで多くの人々が、車のある生活を手にできたし、流行のファッションを低価格で楽しめるし、家電製品を活用して家事を楽に済ませることができる。
 ただし量産品は大量生産だからこそ安いわけで、そこから外れると途端に価値は跳ね上がる。食材や衣服から車、家に至るまで、量産品で満足せず個性的であろうとすれば、お金がかかるのが現実だ。もちろん、個性はお金の問題だけではないけれど。

 人と違うものを持ちたい。それは、ほとんど本能のようなものだと思う。なぜなら「私」は「あなた」とは違うのだから。別の個であるのだから。
 人と違うものが欲しい。その当たり前の感情が、この大量生産の社会では、とてつもなく分不相応な贅沢のように見えることがある。オシャレな家電や有機野菜は高いし、修理工場に並んだ個性的な外国車も、目が飛び出るような値段だろう。車好きが個性を求めるには、相当の財力が必要だ。
 いや、庶民なのに稼ぎを趣味につぎ込んじゃう人、私は好きだけど。夫には欲しくないけど(笑)。

 私は趣味で服を作るが、作れば安く済むわけではない。ユニ○ロで買うほうが、たぶん安い。けれどユニ○ロでいいのなら、わざわざ作ることはしない。
 手間隙かけて多少ながら費用もかけて作るのは、作る行為の楽しさに加えて、やっぱり少しでも自分らしいと思える服が着たい、子どもにも着せたい、そんな思いがあるのだろうな、と思う。

 困難も多いかもしれない。けど、しなやかに個性の枝を伸ばして、自分らしく生きてほしい。小さな工場の前を通るたび、そんなことを思う母である。
 先日、ある女性が雑誌で自身のこだわりを語っていた。お洒落な家に暮らす彼女はプラスチックや工業品が大嫌い、洗濯機を置きたくないばかりに桶と洗濯板(!)を使っているという。そんな根性はからきしない私は所詮、軟弱な現代人。せいぜい身の程にあった個性を求めていきたいと思う次第である。

2014年7月11日金曜日

君に届く声の主

 以前「はざまの世界で」という話を書いたが、幼い子どもは現実とファンタジーの境界を生きている。というか、ファンタジーを現実世界にだだ漏らして生きている、というほうが近いかもしれない。
 先日、園から帰宅した息子が開口一番に口にした台詞はこれだった。「あのね、ぼく今日、夢でね、妖怪ウォッチのメダルが届くんだよ!!」

 ……そ、そうか。妖怪ウォッチ人気だもんね、という話ではなくて(すいません)、いや一体、世のお母さま方はこんなとき、どう反応するのだろう。
 でもまあ「夢で」届くのだから、現実の住人である親が関与する余地は特にない。「そうか、楽しみだねえ」とでも言っておけばいいのである。
 ちなみに数時間後には、「夢でトッキュージャーのお菓子が届く」に変わっていた。理由は不明である。たぶん、お腹が空いたんだと思う。

 これが実際に「妖怪ウォッチのメダル」や「トッキュージャーのお菓子」を要求されたら厄介だが、いや近い将来そうなるのは目に見えているが(涙)、少なくとも我が家の四歳児の場合、特にそういうわけではないところが興味深い。
 子どもにとって「夢」は、ほとんど現実と見紛うほど重要な世界だ。夢は楽しい。欲しいものは手に入り、パパもママも好きなだけ一緒に遊んでくれる。
 現実のパパやママは怒ることもあるし、大好きなお菓子もなかなか買ってもらえない。でも、夢ならそんなことはない。今夜も夢を楽しみに、眠りにつく息子。本当にそんな「夢」を、睡眠中に見ているかは分からないけど。

 家じゅう散らかし放題にして遊んだ日の夜、「お片付けしなさい」と言うと泣き出した。「できない」というのである。母親業も慣れてくると、ここでブチキレて「とっととやれー!!」と叫んでも良い結果は生まない、ということが、さすがに分かってくる。
 私は、息子が最近お気に入りの犬のぬいぐるみを、部屋が見渡せる位置に置いた。「ほらワンちゃんが『○○くん、お片付け頑張れ』って応援してるよ」。もう四歳半だし、こんな手は効かないかも。不安げな母の前で、しぶしぶ片付けを始める息子。
 しばらくすると息子は、片付けながらニコニコ顔で言い始めた。「ワンちゃんが『がんばれ』って言ったよ!」「あ、また言ったよ!」。母には聞こえない声に励まされ、ついに片付けが終了。「一人でできたね、すごーい」と(ここぞとばかり)褒められて、達成感に誇らしげな息子。
 近い将来ほぼ確実に、その声は聞こえなくなる。それでも人は何らかの形で、自分を鼓舞していかねばならない。ファンタジーに助けられて生きているのだなあ、と思ったりする。子どもも、大人も。

2014年7月5日土曜日

共感のベクトル

 機械式の自転車置き場で難儀していると、大学生くらいの若い男の子がサッと近寄ってきて手伝ってくれた。「すいません」という私に、伏し目がちの会釈だけを爽やかに残して去ってゆく彼。
 感じのいい子だなあ、モテるだろうなあ。そんな思いに続いて咄嗟に脳裏に浮かんだのは、「ウチの子も、あんなふうになるといいなあ……」。

 ああ、私も「お母ちゃん」になったのだと、しみじみ思った瞬間だった。若い素敵な男性を見ても、「キャー!! お近づきになりたい♪」とかじゃないのね。オンナよりも母なのね。まあ、そうじゃないとね。いやあ、健全で良かったよ(笑)。
 前回のロンドンオリンピックで体操競技の内村くんを見て、その成長ぶりに私は腰を抜かさんばかりに驚いた。競技のことではない。そんなことは語れない。彼のインタビュー時の態度、そして何より、お母さまへの態度のことである。
 北京のときは、どこか幼さが残っていたように思う。まだ十代だったから当然ではあるのだが、主食はチョコレートだと言ってみたり、あの少々賑やかな(笑)お母さまに対しても、照れ隠しかぶっきらぼうな態度が目立っていた。息子への愛を全身で熱烈アピールする(?)お母さまとは対照的だった。

 それが、ロンドンでは一変していたのだ。大人びたのは見た目だけではなかった。ありきたりの質問にも丁寧にそつなく答える。相変わらず応援席で熱心に声援を送るお母さまへの感想を聞かれて、はにかみながら「嬉しいです」と感謝の言葉を口にする。
 ……せ、成長したねえ(しみじみ)。お母さまはさぞかし嬉しかったに違いない。カメラの前でお礼まで言われて。よかったですねえ、うんうん、と、お母さまに勝手に共感しまくる私。
 このときも思ったものだった。ああ、私も二十代の男性の、お母さまに共感するようになったのかと。何というか、やっぱり複雑である。年齢というよりは、息子を持ったせいだと思うけど。

 時折、芸能人の年の差婚が話題になる。例えばアラフォーの女性と二十代の男性。以前なら「そんなに年下の人と恋愛なんてスゴーイ」と、どちらかというと女性の側に感情移入していたが、今は違う。
 男性のお母さまは、一体どう思われているのだろう。もし息子が将来、二十近くも年上の女性を連れてきたら。もちろん、大事なのは本人の幸せだ。そんなことは分かってる。けど、それは建前だ。
 ああ想像したくない(←気が早すぎ)。若い役者さんやミュージシャンを見て「キャーすてき♪」と思っても、件の「母親行き」共感ベクトルが感情の邪魔をする最近の私である。ああ、大ファンの有名人との結婚を純粋に夢見ていた頃が懐かしい。特に戻りたくはないけど。

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