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2014年7月19日土曜日

個性という贅沢

 近所に小さな自動車修理工場がある。工場と言っても住宅街のど真ん中、小さなビルの一階が作業場になっているような、都会によくある町工場だ。
 いつも修理中の車が数台、置かれているのだが、その車がとにかく凄い。昔の外国映画に出てくるような、デザイン性の高い車ばかりなのだ。特に車に興味のない私ですら、つい目を引かれてしまう。

 つい昨日も、ごく普通のTシャツ姿の従業員らしき男性が、派手なオープンカーを操っていたが、レアな外国車の修理工として、その世界では知られた存在だったりするんだろうか。いや知らないけど。
 格好いいなあ、と思いながら、ふと周囲を見る。集合住宅の前にある駐車場に、ズラリと車が並んでいる。メーカーも車種も違うのに、どれも似ていて無個性で、何だかとても退屈に思えてしまう。

 大量生産の時代に生まれ、その恩恵も受けてきた世代として、量産品を否定するなんて不可能だ。おかげで多くの人々が、車のある生活を手にできたし、流行のファッションを低価格で楽しめるし、家電製品を活用して家事を楽に済ませることができる。
 ただし量産品は大量生産だからこそ安いわけで、そこから外れると途端に価値は跳ね上がる。食材や衣服から車、家に至るまで、量産品で満足せず個性的であろうとすれば、お金がかかるのが現実だ。もちろん、個性はお金の問題だけではないけれど。

 人と違うものを持ちたい。それは、ほとんど本能のようなものだと思う。なぜなら「私」は「あなた」とは違うのだから。別の個であるのだから。
 人と違うものが欲しい。その当たり前の感情が、この大量生産の社会では、とてつもなく分不相応な贅沢のように見えることがある。オシャレな家電や有機野菜は高いし、修理工場に並んだ個性的な外国車も、目が飛び出るような値段だろう。車好きが個性を求めるには、相当の財力が必要だ。
 いや、庶民なのに稼ぎを趣味につぎ込んじゃう人、私は好きだけど。夫には欲しくないけど(笑)。

 私は趣味で服を作るが、作れば安く済むわけではない。ユニ○ロで買うほうが、たぶん安い。けれどユニ○ロでいいのなら、わざわざ作ることはしない。
 手間隙かけて多少ながら費用もかけて作るのは、作る行為の楽しさに加えて、やっぱり少しでも自分らしいと思える服が着たい、子どもにも着せたい、そんな思いがあるのだろうな、と思う。

 困難も多いかもしれない。けど、しなやかに個性の枝を伸ばして、自分らしく生きてほしい。小さな工場の前を通るたび、そんなことを思う母である。
 先日、ある女性が雑誌で自身のこだわりを語っていた。お洒落な家に暮らす彼女はプラスチックや工業品が大嫌い、洗濯機を置きたくないばかりに桶と洗濯板(!)を使っているという。そんな根性はからきしない私は所詮、軟弱な現代人。せいぜい身の程にあった個性を求めていきたいと思う次第である。

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