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2014年8月30日土曜日

追憶

 過去の記憶がふと脳裏に浮かぶことが増えたのは、人生も中盤に差し掛かったせいなのか。特に子を産んでからは、子どもの頃の両親の姿をよく思い出す。

 記憶の中の母は、少々ヒステリックだ。二十歳で見知らぬ土地に嫁ぎ、苦労も多かったのだろう。「気分が悪い」と言っては、よく寝込んでいた。
 幼稚園の頃は毎朝、廊下の拭き掃除をさせられた。学校でテストの成績が悪いと「お母さんはいつも百点だったのに」と叱られた。鉄棒の逆上がりができず、夕暮れの公園で泣きながら練習した記憶もある。
 ピアノに英語、習字に珠算にスイミング。立派に育てようと母なりに必死だったのだろう。いつもどこかで母の機嫌に怯えていた。そして反抗期が来る。
 成績は下がり、態度も悪くなった。母はますます寝込むようになったが、そんな姿すら苛立たしかった。荒んでいく私を見て、母はパートを辞めた。

 遠方の大学を高望みし、担任や父に猛反対される中、「本人の望み通りにさせてやりたい」と言ってくれたのは母だった。合格の電報が届いた瞬間、母はその場に泣き崩れた。
 「女の子は家にいるべき」と言いながらも学費を出してくれたのは父だ。卒業後も気ままに生きる私を、両親はただ見守っていてくれた。親世代とは価値観が違うから、どうしても反発はある。けれど一つだけ、間違いなく確信できる思いがある。
 両親は、私のことを愛している。私の幸せが、彼らの喜びなのだ。我が子にそう信じさせてくれるような親に、自分もなりたいとつくづく思う。きっとそれは、想像以上に難しいことなのだろうけど。

 こう育てたから、こう育つ。そんなに単純ではないだろう。時代も違う。何より「相手」が違う。それでも様々な局面で、過去の記憶が蘇る。その姿はお手本になることもあれば、反面教師のこともある。
 一人で生まれてくる人はいない。人間の赤子は他人の手なしでは生きられない。命がけで産み、世話してくれた人が、誰にも必ず存在する。
 愛した記憶、愛された記憶。それらは時に折れそうな心を支え、噴き出す苛立ちを鎮めてくれる。無邪気に笑う幼き日の写真に、愛されていたことを思い出すように。愛していた日々を思い出すように。

 人生相談で、倦怠期に悩む夫婦に「新婚の頃を思い出して」なんて回答があったりするし。まあ、そう簡単にはいかないから悩む気もするけど。
 好きなミュージシャンの映像を観ていたら、その横顔が元カレにソックリなことに突然気づいて、思いがけず取り乱したことがある。それまで一度も思ったことはなかったのに。記憶はときに思わぬタイミングで活性化して、ドラマティックな悪戯をしたりする。人間って面白いな、と思う。

2014年8月22日金曜日

見知らぬ故郷

 「出身地はどこですか?」と訊かれたとき、「名古屋です」と答えることが多い。厳密に言えば違うのだが、面倒なのでつい、こう答えてしまう。
 余談だが、東京で「じゃ、関西ですね」と返されて絶句したことがある。「名古屋って何県だっけ!?」というのもあった。まあ私も全国の都道府県名を白地図に記入する自信はないので人のことは言えない。

 ところで東京に来て相当経つが「私も名古屋です」という人にまだ会ったことがない。代わりに、転勤などで名古屋在住経験がある人には何人か会った。
 彼らは嬉しそうに「懐かしいなあ名古屋。いいところですよね」なんて言ってくれる。そして「ほら、どこそこの店が……」とローカルな思い出話をしてくれるのだが、いつもポカンとしてしまい申し訳ない気持ちになる私である。
 進学のため18歳で県外へ出た私にとって、名古屋は「休日に親が車で連れて行ってくれる場所」に過ぎなかった。通学や通勤の経験もない。分かるのは大きなデパートや地下街、ライブハウスやコンサートホールくらいで、「味噌煮込みうどん」も「ひつまぶし」も、初めて食べたのは東京へ来てからだ。
 地下鉄や駅の名前も分からないし、土地勘もない。もう「名古屋出身」を名乗るのは、やめた方がいいかもしれない……すいませんラクなのでつい……。

 「女の子は県外へ出ると、二度と戻って来れないよ。それでもいいの?」。高校三年生の三者面談で、担任にこう言われた。就職口がない、という意味だ。
 「どうして外へ出るの? 名古屋に何でもあるのに」。同級生にも散々言われた。保守的な土地柄で、大都市にも近い。私よりずっと成績のいい子が、地元の女子短大に合格して喜んでいる。外へ出たい一心だった当時の私には、とても不思議な光景だった。
 「地元を出る子と残る子は、ハナから決まっている」。こんなエッセイを読んだことがある。何だか、すごく分かる気がした。もちろん、進路は自由だ。大切なのは、望む道を進むことなのだから。

 帰省して家族で吉良(きら)へ。ホテルの土産物コーナーにある「西尾名産」の文字に、どうにも違和感が残る。そういえば実家から一色(いっしき)の鰻が届いたときも「西尾」の文字に戸惑ったっけ。
 三河湾沿いの観光地である吉良も、鰻の名産地である一色も、少し前の大合併で西尾市に編入されたと分かっていても、いや一色は一色であって西尾じゃないでしょ、なんて感覚が抜けないのは、むしろ県外へ出た人間だからかも、なんて思ったり。
 今では日本ガイシホールと聞いても「それ、どこ!?」。いろんな名前が変わりすぎて、思い出も分断されて、もう何が何やら、中日ファンの相方は、私がナゴヤドームではなく「ナゴヤ球場」で中日戦を見たことがあると言うと羨ましがる。少し嬉しい。

2014年8月16日土曜日

LOOK @ ME !!

 仕事先で会った先輩ママさんと「夏休みは大変だよねえ」とグチり合う。子どもには「休み」でも、母にとっては一日中子どもと過ごさねばならず、むしろ仕事が増える。ちっとも「休み」ではないのだ。
 「ホント、仕事が息抜きだよ」。ため息をつく先輩ママ。仕事が楽だという意味ではない。仕事すら息抜きに思えてしまうほど、子とベッタリの一ヶ月半はキツい、という意味である。

 そういえば夫の定年退職後、家で夫の世話をし続けるのが苦痛なあまり、パートに出る女性が少なくないと聞いたことがある。今どきの女性は、うっとおしい「濡れ落ち葉」の相手などしないらしい。もしくはジョギングなど比較的「お金のかからない趣味」を(一人で)始めたりとか。
 マジっすか。子育ての果てにはそんな日々が。……それはともかく夏休み。夫は放っておいても何とかなるが(たぶん)、子どもはそうはいかない。
 朝昼晩と食べさせて、運動もさせねばならない。小学生になればプールだの何だので外へ出てくれるのだろうが、ママと家にいる幼児は、それこそ「濡れ落ち葉」のごとく、大喜びで始終まとわりつく。

 「ねえママ、見て!」「これ、スゴイでしょ!」。最初のうちこそ可愛いが、ひっきりなしにやられると、さすがに辛いものがある。台所にいようが洗濯物を干していようがトイレへ駆け込もうとしていようが、「ママ見て!」攻撃は容赦なく繰り出される。
 ○を描いては「見て!」、積み木を積んでは「ほら見て!!」。久しぶりに見ると、手先の上達ぶりや発想の豊かさ等、確かに驚きはある。あるのだが「わあスゴイ!」と新鮮な気持ちで言えるのは最初だけで、次第に対応が大人げなくなってくる。「分かったから」「あとでね」。可哀想だと思いつつ、でもママにも生活がある。トイレにも行きたいし。

 遊んでいても、道を歩いていても、子どもはどこかで常にママを意識している。「ママばかり見てないで、前を見なさい」と、何度注意したことだろう。
 ママに見ていてほしい、ママに見せたい。ママの次には「パパにも見せようっと」。とにかく彼は、自分を見ていてほしいのだ。親に出来ることなんて「見てること」くらいじゃないか、と自戒する私。

 あるとき、後ろから「見て!」と声をかけられて、手を休めたくなかった私はとっさに「お尻で見てるよ」と答え、後ろ向きのままでお尻を振ってみせた。
 これが息子に大ウケだったので、最近は「見て!」と言われると、時折お尻を振って済ませる私である。その後「足の裏で見てる」バージョンも登場(←寝転がっているときに便利)。もうお尻と足の裏に、目玉マークでも貼ってやろうかと思う今日この頃である。いや暑いですね……。

2014年8月8日金曜日

遊びにきてね

 幼い頃に幼稚園で、帰宅後におともだちと遊ぶ約束をした。待ち合わせの場所と時間も決めて、さっそく迎えにきた母親に告げる。ところが母は「子ども同士の約束」と、まともに取り合ってくれない。
 でも、確かに約束したのだ。その時間にはおともだちが、約束の場所で待っている。約束を破るわけにはいかない。私の懇願に根負けして、母は約束の時間に待ち合わせ場所まで連れて行ってくれた。しかし待てど暮らせど、おともだちは来なかった。

 あのとき、誰も来ない道を眺めていた絶望感を、今でも思い出すことがある。人付き合いがあまり得意なほうではない私の、あれが原点かもしれない。もちろん、所詮「子ども同士の約束」、おともだちを責めるわけにもいかないけれど。
 だから園で、息子のクラスメートの男の子が「ねえ、○○くん(息子)のおうち、遊びにいっていい?」と話しかけてきたとき、とっさに「うん、いいよ。おいでよ」と愛想良く答えてしまったのだ。そして、それを傍らで聞いていた息子がすっかりその気になり、「ねえ、○△くん(クラスメート)いつ遊びにくるの?」と毎日しつこく訊いてくるようになったとき、「所詮、子どもの言うことだから」とスルーすることが、私には出来なかったのである。

 ところで子どもは、おともだち同士で「遊びにいく(来る)」という行為に随分と憧れがあるらしい。
 同じクラスの女の子に突然「今日、うちに遊びにきていいよ」と誘われたこともあるし(横ではママが「いや片付いてないから……」と焦っていた)、息子が友人を執拗に誘うのを目撃したこともある。「ぼくんち遊びにおいでよ。おもちゃもいっぱいあるよ」……どんな勧誘だ(笑)。いや君、そんなに多いほうじゃないと思うよ、たぶん。カンだけど。
 園ママ仲間と会話の流れで「いつでも遊びにきてね」なんて話はしても、「じゃあ何日に」と具体化することは、なかなかないのが実情だ。誰しもみんな忙しい。つい、余計な気を使ってしまう。

 そのせいか、こんなわけでよかったら遊びにこない? と声をかけた、例のクラスメートの男の子のママさんは、大量のお菓子を手に大喜びで遊びに来てくれた。もう一人おともだちが加わって、男の子三人、家じゅう仲良く駆け回り、気が向いたらお菓子をほおばって、また遊んで、という夢のような(笑)時間を過ごした後、元気に帰っていった。
 私はと言えば、数日前から準備に励んだおかげで家の中も片付いて(笑)、おともだちとはしゃぐ息子の楽しげな顔も見れて、思い切って声かけてよかったなあ、と安堵しきりである。また誰か遊びにこないかなあ、なんて考えてる自分に結構ビックリ。できれば今のうちにお願いしたいですが。ええ、散らかる前に(涙)。

2014年8月2日土曜日

苦痛の基準

 妊娠がわかったのは、二〇〇九年の六月だった。この年の七、八月、私は悪阻(つわり)でぶっ倒れていた記憶しかない。

 朝、「行ってきます」と家を出た相方は、帰宅後には朝と同じ姿勢のまま「ぶっ倒れて」いる妻の姿を毎日、見る羽目になった。
 全身の血管を、血の代わりにキモチ悪い何かがドロドロと駆け巡っている、そんな感覚。口を開けば「うげえ……」という呻き声しか出てこない。
 外出もできず、ロクにモノも食べられず、一人きりで部屋の中、身動きできず呻いていた夏。海も山も花火も夏祭りも、遠い世界の出来事だった。大好きな夏が、この年だけモノクロームのようだった。

 しかし「つわりは大変でしたか?」と訊かれたら、私は「いいえ」と答えなくてはならない。何故か。端的に言えば「もっと大変な人がいる」からである。
 ケトン値が高かったわけでも入院したわけでもない。世の中にはハードなつわりに苦しみながら、フルタイムで働いたり上の子の育児に追われる妊婦さんも少なくない。ノンキに「ぶっ倒れて」いられるのは、ある意味で恵まれているとも言えるのだ。
 ある育児漫画で、つわりで入院した作者が「私なんて軽い方」と書いていて驚いたことがある。終日吐きまくって長期入院して絶対安静、くらいまで行かないと「つわりが大変」などと軽々しく口にできない空気がニンプ界にはあるらしい。ああ恐ろしい。

 別の育児漫画で、出産が五時間ほどだった作者が「安産ですね」と言われるのが複雑、と告白していた。彼女曰く「短くても、痛いものは痛い」。安産ですね、という言葉に「楽なお産でしたね」という響きを感じるらしい。なるほど、と考え込む私。
 私は出産まで二十時間以上かかった。出血多量で貧血がひどく、血圧が急降下するという恐ろしい体験もした。それでも産後は回復し、子どもも元気に生まれた。ありがたき「安産」であった。
 安産か否か、というのは結果論でしかない。母は誰しも命をかけて出産に臨む。楽なお産など、ひとつもない。そういう理解でいいのだと思う。

 以前、アメリカの若きセレブ女性が軽犯罪で刑務所に入った折、パニック発作を起こしたというニュースがあった。著名人の彼女は特別扱いで部屋も広かったから、むしろ同情よりバッシングが起こった。
 しかし贅沢に育った彼女にはその部屋は狭く、発作を起こすほどの恐怖だったのだ。もし、大自然を住処として育った人間がどこかに閉じ込められたら、それが東京ドームだとしてもパニックになるだろう。
 苦痛は個人的な感情で、その基準は個人の中にしかない。つわりはやっぱり辛かったなあと、あのときと同じ部屋で迎える新たな夏に思う私である。

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