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2015年5月27日水曜日

そこに愛はあるか

 弁当が母の愛なのか、私には分からない。父が作れば父の愛、祖母が作れば祖母の愛? 愛にはいろんな形があって、その一形態ではある気がする。
 弁当に限らず「手作りが母の愛」というのは、現代では反発を呼びやすい表現だ。私は時々、子どもの服を作る。服作りに関しては私の場合、答えは明快だ。それは母の愛ではなく、母の「趣味」である。

 だって、そうではないか。今の時代、作らずとも服は買える。しかも、安い。モノだって悪くない。どこの街にもあるファストファッションの店舗には、喫茶店のコーヒー代よりも安い服が並んでいる。
 リサイクルショップやフリマ、ネットオークションだってある。多彩なデザインの子ども服が、リーズナブルに手に入る国ニッポン。そんな幸福な国にいながら、金と手間をかけて服を作る。誰もが近所で買えるもの、例えば「紙」を、わざわざ作る。買わずに手漉きで作るとしたら、それは「趣味」だ。
 手間ヒマかけるから「愛」なのかもしれない。しかし子どもが「絵を描く紙が欲しい」と言ったとき、「待って、いま紙漉きの材料仕入れてくるから」……これでは、さすがに愛とは呼べまい。

 もちろん、これはあくまで私の場合であって、愛情の発露として服作りをされる方も当然いらっしゃるだろう。しかし私は、いくら胸に手を当てて考えてみても、「趣味」という答えしか出てこないのだ。
 二年前に作ったTシャツはもう小さいが、息子は未だ新しいTシャツを買ってもらえない。何故なら母が「作りたい」から。「今は忙しくて作れないけど、そのうち作りたい」からと、丈の短いTシャツを今日も着る息子。早く買ってやれ(怒)。

 所詮は趣味なので、質の保証はない。自分のウデも顧みず「これ作りたい!」と手を出した結果、うまくいかずに不機嫌になる母。「ねえママ……」「今忙しいから!」。追いやられて悲しそうな顔の息子。どう見ても、愛とはほど遠い光景である。
 それでも「ママそれ、ぼくの服?」と嬉しそうに訊く息子。くじけそうになる深夜、リッパーで糸を解きながら、息子の喜ぶ顔を思い浮かべる。もうひと踏ん張り、とミシンに向かう。愛もやっぱり、少しはある気がする。あるってことにしたい(願)。

 「毎朝、弁当作るなんて偉い」と言われると複雑だ。自ら子を持つ選択をして、選んだ園がお弁当だったから、その責任として作っている。愛というより責任だ。でも責任もまた愛なのだろう、とも思う。
 あるとき気が向いて、ペンギン兄弟のおにぎりを作ってみた。人生初のキャラ弁は頭を抱えたくなる出来(涙)だったが、息子の喜びようは凄まじく、慌てて「時間があるときだけだよ」と念を押す。
 趣味は人生を豊かにする。子育てにおいても同様だ。けれど趣味である以上、押し付けたり無理強いすることは不可能だ。私にはキャラ弁の「趣味」はないので、そこは息子に諦めていただくしかない。……「能力」がないとも言うけど。

2015年5月11日月曜日

君は110センチ

君は一一〇センチ
中途半端な一一〇センチ
まだまだ幼児 いつかは少年?
はざまで揺れる曖昧な季節

何でもよく食べる良い子です
食べ過ぎて顔がまんまるです
服のサイズは一一〇センチ
本当はもう少しちっちゃいです

君は一一〇センチ
公称サイズ一一〇センチ
ベビーじゃなくて キッズでもない
そんなセンチメンタルな時間

生まれたときは四十八センチ
少し小さめの君でした
棒のような足を折り畳み
片手でひょいと抱えてました

三つ四つ年を重ね
五つ六つロウソクを消して
君の瞳に宿る輝きが
ずんずん大きくなった

上ばっかり向いて 首が痛いなら
前だけを向いて走ってゆけ
椅子によじ上れば ママよりノッポ?
でもまだ届かない世界があるね

君は一一〇センチ
そこそこイケてる一一〇センチ
ママを見失って ギャーと泣くのも
なんとかギリギリ似合うお年頃

君は一一〇センチ
かろうじてまだ一一〇センチ
背伸びをしたら お腹がちらり
聞こえてきた一二〇の足音

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