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2015年9月30日水曜日

九月のランドセル

 子どもたちの嬌声が響く、休日の駅のホーム。パパと一緒のお出かけが嬉しくてハイテンションな男の子。まあるい目にぷっくりホッペ、か、カワイイ。四歳くらい? ウチの子より小さいかなあ。
 向こうには、よちよち歩きの弟の手を引く、小さなお兄ちゃんの姿が。か、カワイイ。まだ三歳くらいかなあ。ウチの子より間違いなく小さいなあ……。

 最近、街で子どもを見かけると「カワイイ!」と同時に「ウチの子より小さい(年下)!」という感想が、セットで湧いてくるようになった。言い換えれば「カワイイ!」と感じる対象が、軒並み息子より年少の子ばかりになってきた。
 考えてみれば無理もない話で、年明けに六歳を迎える息子は、来春には小学生なのだ。息子より年上というと、小学生になってしまう。いや小学生も可愛いけど、赤ん坊〜幼児の可愛さとは、やはり違う。

 よちよち歩きの赤ちゃんを眺めながら、もうあんな日は来ないのだ、と寂しく思うのは、やはりトシのせいなのか。若いお母さんなら、こんな感傷は持たないんだろうか。
 「あなたが赤ちゃんだったときはね」。時折、息子にこんなことを口走る私。「もう、ほんっとに可愛かったのよぉ」。息子は笑いながら、今だって可愛いよお、と少し不満げな顔をする。もうすぐ小学生の自分は「かわいいじゃなくて、かっこいいだよ」「かわいいは、女の子だよ」と訂正されたりもする。
 「春から幼稚園」が「さいしょのおわかれ」なら、小学校への入学は二回目のお別れ。何かが変わる。人生の流れ、時間軸。喜ばしい、祝福された、期待に胸膨らませた「お別れ」が、これから何度も訪れる。慣れるのも親の仕事なのだろうな、と思う。

 今どきの子は幼い頃から撮りためた写真や映像が大量にある。手づかみで食べ、奇声を上げ、指しゃぶりで眠る赤ん坊の自分の映像と、その姿に「カワイイ〜」と身悶えしながら見入る母(=私)を、息子は照れくさそうに、少し戸惑い気味に眺めている。
 私の古い写真も実家の本棚にある。親が用意した服を着て、親が連れて行ってくれた場所で、無邪気に笑う幼い自分。くすぐったい記憶。いつか親元を離れ、先へ進むための土台。そんなことを考える。

 先日、久しぶりに会った知人は、息子を見た瞬間「うわ、大きくなった!」と声を上げた。やはり外向きの印象も、幼児から少年へ変わりつつあるんだろうか。庇護されるだけの存在から、尊重されるべき一個の人間へ。社会への歩みが、もうすぐ始まる。
 十二月に届くはずのランドセルが、もう届いた。息子は大喜びだが、自分たちで選んだくせに心の準備ができていなかった私と相方は困惑気味だ。九月のランドセルは、どこか身構えていて空々しい。
ひと通り確認した後は、丁寧に包み直して箱の中へ。まだ半年ある。君の出番はまだ先だ。君を相棒として迎える前に、愛らしい幼児期を卒業して新たな未来へ進む前に、まだやり残したことがある。

2015年9月13日日曜日

偉いんじゃなくて

 帰省だ何だで親族に会うと、必ず言われる言葉がある。「毎日、幼稚園へ送り迎えしてるの? すごいね」「毎日、お弁当作ってるの? 大変だねえ」「あなたが? ホントに!? 偉いねえ」……。

 昔からの友人にも、同じことを言われる。「あなたが?」というのは「(あの、何にもできない、する気もなかった)あなたが?」という意味である。余程、日頃の行いが悪かったらしい。
 出産前は確かに皆さまが仰る通り「何もしなかった」私だが、今では園への送迎もするし息子の弁当も作る。夕食の支度もする。胸を張ることでもないが(ホントにねえ)、以前の私を知る人は相当に驚くらしい。とはいえ「成長したねえ」「大人になったねえ」と真顔で言われるのもどうかと思う(涙)。

 言うまでもなく私は、偉いわけではない。目の前に自分で産んだ、何もできない赤ん坊がいたら、自分の主義や性格や能力はどうあれ、とにかく育てるしかない。料理は下手だから作りません、ウンチは苦手だから放っときます、では赤子は死んでしまう。
 そんな現実に直面し、とにかく必死で食事を与え服を替え、人として生きるための基本を伝えようと奮闘する。それは、とても普通で自然なことだ。
 そこにあるのは愛とか義務とか責任とかいうことより、もっとずっと無意識的で本能的な何かで、それが「母性」とやらなのかもなあ、と思ったりする。

 子育ては大変だけど、それでも我が家は息子一人。子どもが二人いれば弁当も二人分、ましてや三人、四人といたら。そんな子沢山のママさんを見ると、つい「大変だね」「偉いねえ」と口にしそうになる。
 「そんなことないよ」。しかし彼女たちは、大抵こう言うのだ。上の子が手伝ってくれるし、親も慣れてくる。三人、四人いるからといって、手間が三倍、四倍になるわけではない、と。
 それは嘘ではないのだろう。とはいえ実際の手間は確実に増えるはずで、なのに「大変でしょう?」という私の問いに、彼女たちはなかなか頷こうとしない。「そんなことないよお」と明るく笑うだけだ。

 もし、私に二人、三人の子がいたら。大変も何も、とにかく三食食べさせ服を替え、必要なら全員分の弁当を作り、全員お風呂に入れて寝かしつけ、「大変でしょう?」と言われても、ピンと来ないかもしれない。目の前に育てるべき子が何人いようが、それはもう「育てるしかない」のだから。
 生きるってきっとそういうことで、何も育児だけの話じゃなくて、「自分」というのは意外と柔軟で、必要とあれば自然と変わっていくのかもしれない。
 そんなことを思いながら、我ながら上々の手際で弁当を作る。昔の「何もしない」私が見たら、きっと腰を抜かすに違いない手早さで。

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