tag:blogger.com,1999:blog-45230147852251750922024-02-22T03:23:08.351+09:00大久保きのこブログ - 母と子のいる風景 -あたたかくて、なつかしい。"母と子のいる風景"へ、ようこそ。 大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.comBlogger228125tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-56475641825450342932017-04-26T13:41:00.000+09:002017-04-26T13:41:54.027+09:00二年目の春の嵐 とある教育施設で働く知人に聞いた話。知人の職場には毎年、多くの新一年生がやってくる。幼児気分の抜けない子らに「自分のことは自分でやろうね」と優しく諭す知人。素直に頑張る子どもたち。<br /> ところが迎えに来た親の顔を見た途端、「ママー、カバン!」と荷物を突き出す子どもたち。「あーはいはい」と何の躊躇もなくカバンを受け取る親……。<br /><br /> 「せめて『ママ、カバン持って』までちゃんと言え! 親もそれくらい自分で持たせろ!」とオフレコで叫ぶ(笑)知人に、あーわかるわかる、ごめんね、と何故か謝る私。<br /> 幼児の頃は「重いものを持たせたら可哀想(=ふらついたら危ないし疲れて文句言ったり色々面倒)」だったのが、小学生になった途端、あの重いランドセルを背負って毎日ご登校だ。幼児気分ならぬ「幼児の親気分」が抜けず、つい世話を焼いてしまう。<br /> 今では腕やランドセルの金具に色々ぶら下げて、まるでポールハンガーのような姿で元気に登校する息子は二年生。小学生ぶりも板についてきた感じ。<br /><br /> 「ねえ、こんど家に友だち呼んでいい?」と息子が訊いた。家に来たがっている友だちがいるという。いいよと言うと「せっかくだから、ほかにも何人か呼ぼうかな」。うんそうしなよ、と答えながら、頭の中で算段する母。お菓子は多めに用意しておいたほうがいいかな、ジュースも補給しないと……。<br /> 幼稚園までは、友だちを家に呼ぶ行為には「おもてなし」の側面があった。幼稚園児は必ず大人である親と一緒に来るからで、大人を家に招くのに最低限の礼儀というのはやはりある。<br /> しかし今回は子どもだけ。遊ぶ場所とお菓子とジュースがあれば十分だろう、とノンキに構えていた。そして当日。何人くらい来そう? と尋ねた私に息子は指を折りながら言った。「うんと……10人!」<br /><br /> は!? じゅ、10人!? アンタのクラス30人しかいないのに10人て!!<br /> 「こんにちわ!」「おじゃまします!!」チャイムが鳴り、雪崩のように家へ駆け込む子どもたち。千手観音のように伸びる手によってお菓子はあっという間になくなり、1リットルパックのジュースも瞬殺。玄関を埋め尽くす10足の子ども靴と三台のキックスケーター。4対6で女の子が多く、通知表の通信欄に「男女隔てなく仲良くできる」と書かれただけのことはあるというか何というか……。<br /> 息子の思わぬ動員力(?)に、自分で言うのも何だがマイペースで友人の多いほうではない(涙)母は口をあんぐりしつつ、まあ物珍しさもあったんだろう、次からはきっと減るはず。いつも息子がお邪魔しているおうちの皆さま、有り難うございます。六畳間で10人が一斉に菓子を食べると部屋がキョーレツに菓子臭くなるんですね初めて知りました……。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg8GG9C9zRk5qKZYbwFn6FMV3W0Jsov4KTG2-kDPWwxacCjyxK-YAdk9ElhOjGBmphs_BDdmfX2uhghT85YMt3_nG8iREg3ceRiyHuQ14RCIjCgFYFyqBoeTJZuuLS3hc03mIt2Z-3tkbEc/s1600/20170426.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg8GG9C9zRk5qKZYbwFn6FMV3W0Jsov4KTG2-kDPWwxacCjyxK-YAdk9ElhOjGBmphs_BDdmfX2uhghT85YMt3_nG8iREg3ceRiyHuQ14RCIjCgFYFyqBoeTJZuuLS3hc03mIt2Z-3tkbEc/s320/20170426.jpg" width="238" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-34415512649542737582017-02-20T11:36:00.000+09:002017-04-26T13:42:11.485+09:00七歳のバレンタインデー 私の母は、二月十四日が誕生日である。母が子どもの頃は、さすがにバレンタインデーなどというものは「なかったと思う」。<br /> しかし私が物心ついた頃には、母からお小遣いをもらい、近所のスーパーへ家族の分のチョコレートを買いに行っていたのを覚えている。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC">ウィキペディア</a>によると、日本社会への定着は70年代半ばらしい。中高生ともなると周囲がキャッキャと盛り上がっていた記憶はあるが、私は傍観者でしかなかった。<br /><br /> チョコレートは甘くておいしいし、ピンクや赤のパッケージは見ているだけで華やかだ。若いムスメだから、もちろん告白したい相手だっている。でも、どうしてもムスメ心に引っかかる。「どうして『好きな子にチョコをあげる』必要があるんだろう?」<br /> 私はクラスに一人や二人(?)はいた、そういうことを疑問に思ってしまうタイプのコムスメで、「なぜチョコ? なぜこの日に?」というモヤモヤからどうにも逃れられず、とはいえチョコは甘くておいしいので(←二回目)、相手がいるときはあげたりもしたし、昔よくあった組織的義理チョコにも特に抵抗もなく参加していた。<br /> 百円しか払ってないのに、五百円はするブランドハンカチをお返しにもらったこともある。いや、ヘンな時代だった……今なら速攻で売られそう……。<br /><br /> 成長してからは、バレンタインデーと聞くと「お母さんに『おめでとうコール』しなきゃ!」と慌てふためく日になった。孫(息子)が生まれてからは、「おばあちゃんに『お誕生日おめでとう』って言うんだよ」と言い含めて電話を渡してしまう。カワイイ孫の声におばあちゃんも大喜び。気づけば息子が自分のことばかり喋っているのはご愛嬌だ。<br /> 図書館で見つけた、小学校低学年向けの手作りチョコの本を見て、息子と挑戦する。紙コップに板チョコを割り入れてレンジでチン。溶けたチョコをアルミホイルの上に流し、何となくカタチを付けて飾りを散らし、冷蔵庫で固めれば完成だ。こんなものでもラッピングすれば結構サマになる。<br /><br /> そしてバレンタイン当日。女の子がチョコをくれるというので(!)公園に行く息子が、なぜか件の手作りチョコを持っていくという。「アンタ(一応)もらう側じゃないの?」「でも持ってきてって言われた」。そして夕方、今度は手ぶらで帰ってきた。<br /> 聞けば公園に女の子はおらず(!!)、いたのはクラスの男の子たちで、みんなで持ってきたチョコを交換して仲良く食べたらしい。いや、友情が深まってよかったじゃないか(わはは)。<br /> 結局、家のポストに入っていたりして、何とか面目は保った七歳のバレンタインデー。皆さまお気遣い有り難うございます。これでホワイトデーもできると思うとイベント好きの母は嬉しい。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibdtcDnNBcAbkGLwbCyKGQNGQgqOJp1CStO2g0RSER_gocyWb6n1v0ibAl-x6LSzkmDocpy6AKUi26G4eqk1noaaY9lSz7mDVrjs-bTJihm-6f9Lwnwgh8lSzSw15jDnhYTqQujVUhq1_V/s1600/20170220-3.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibdtcDnNBcAbkGLwbCyKGQNGQgqOJp1CStO2g0RSER_gocyWb6n1v0ibAl-x6LSzkmDocpy6AKUi26G4eqk1noaaY9lSz7mDVrjs-bTJihm-6f9Lwnwgh8lSzSw15jDnhYTqQujVUhq1_V/s320/20170220-3.jpg" width="236" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-32860762939054527802016-11-22T16:10:00.000+09:002016-11-22T16:29:40.653+09:00空き箱の王国 残暑厳しい初秋のある日。インターホンが鳴って、汗まみれでドロドロのイキモノがモニターに映った。<br /> 両手には、何故か巨大な紙袋が二つ。黄色い帽子の下から目をランランと輝かせ、生え代わりで前歯の抜けた口をニカッと開けて「ただいまー!!」……何だろう、もう嫌な予感しかしない(涙)。<br /><br /> ドアを開けるなり「おやつはー」と騒ぐ汗だくの息子を、ドアツードアで浴室に放り込む。余談だが暑い季節は、合間合間に「シャワーを浴びさせる」時間を考慮して予定を立てないと大変なことになる。<br /> 持ち帰った紙袋の中を覗き込む私。「……これ、ゴミ?」「えー!! ゴミじゃないよ」。<br /> 空き箱やラップ芯をセロテープで合体させたような、そんな謎のガラクタ……じゃなかった工作物が、紙袋の中にわさわさ詰まっている。<br /> 「……ゴミだよね?」分かっちゃいるが認めたくはない母に再び問われた息子は、さすがに不満そうに言った。「ゴミじゃない! ぼくがつくったの!!」<br /><br /> 工作好きの子どもは微笑ましい。発想豊かだ、クリエイティブだと世間ウケも悪くない。そんな息子の「作品」が、我が家には山ほど転がっている。<br /> ウキウキ飾る親バカ心は、もちろん私にもある。とはいえ所詮は小一の工作、作りは強固とは言えず、テープが劣化して剥がれ、家族にうっかり蹴飛ばされて壊れかけた工作物が、みるみる家中を浸食する。<br /> 子どもたちの制作物の扱いに困るのは学童でも同じらしく、時々、息子はこの日のように、大量の工作物を家に持ち帰ってくる。意気揚々と。「ぼくがつくったもの」を、ぜひ親に見せようと。わかってますって。もちろんわかってますとも……(涙)。<br /><br /> 世間ではこのようなとき、「写真に撮ってから捨てる」「何年か寝かせてから捨てる」「子ども自身に判断させる」あたりが定番らしい。なるほど。<br /> 今はまだ親バカ新米母の私も、躊躇なくポイできる日がきっとくるであろう。巨大な蔵のある家に住まない限りは。そう考えると、ガラクタ工作にあふれた我が家も悪くないかなあ、なんて思う母である。もうね、捨てるのも面倒くさいの(←本音)。<br /><br /> 夏休みの自由研究は、家にある日用雑貨で作った「ぼくのまち」。段ボールの大地にビニールの川が流れ、空き箱の電車が走り、フェルトの木々が茂る。学校での評判は上々だったらしい。<br /> 夏に育てたアジサイのツルは、クリスマスリースになる予定だとか。みんなで絵の具まみれになって学校の壁画を描いたり、近隣の幼稚園と共同でドングリ工作をしたり。学芸会の大道具小道具も子どもたちの手作りだ。小学校の日常は、何だかやたらと「作って」いる。<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/11/blog-post_15.html">図画工作がずっと「2」だった</a>私は、楽しそうに話す息子が本当は少し羨ましい。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlJDHLXuBX2dGaWRMFhJkChGBgBYKP4rra9ODWlLqXzzIjG7_2L82r7z5gh1I4zs5B1oyIa_QeI-1WB2UWMQeSK3NDAxnAUG5vcMeaCc5CicfLzwG6Ivxnz5QtG0T0i-Z7G4tFiMMzDtE1/s1600/20161122-2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlJDHLXuBX2dGaWRMFhJkChGBgBYKP4rra9ODWlLqXzzIjG7_2L82r7z5gh1I4zs5B1oyIa_QeI-1WB2UWMQeSK3NDAxnAUG5vcMeaCc5CicfLzwG6Ivxnz5QtG0T0i-Z7G4tFiMMzDtE1/s320/20161122-2.jpg" width="233" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-77356185465286524882016-09-07T14:50:00.000+09:002016-09-07T15:19:55.796+09:00いのちのふるさと 夏休みにお世話になってから、まさか二週間も経たないうちに再訪することになるとは思わなかった。泣き崩れる私を、息子が不思議そうに眺めている。<br /> 一報を受け深夜バスですっ飛んでいった相方が到着したときには、義母はすでに意識がなかったという。誰もがいつかは親を送る。けれど、こんな形で送ることになろうとは思わなかったに違いない。<br /><br /> 「我が家の男ども」。二人の男の子の母である義母は、よくそういう言い方をした。「まったく我が家の男どもはダメねえ。ねえ○○(私)さん」。<br /> その「我が家の男ども」三人(義父含む)が、憔悴した表情で顔を突き合わせている。いや現実には、残された家族には憔悴する暇もない。<br /> 「敢えて考えないようにしてるみたい」。親族の誰かが言った。そうかもしれない。「服はどれ着たらええか……」。いつものようにトボケた口調の義父に、親族の一人が慌てて走り寄る。<br /><br /> 通夜の日の朝、ひとまず息子を学校へ行かせ、早退して現地へ向かうことになった。その旨を記した連絡帳をランドセルに入れ、「もう帰るの?」と友だちに聞かれたら「おばあちゃんが亡くなったから」って言うんだよ、と言い聞かせて送り出す。<br /> 問題は息子の服装だ。さすがに幼稚園の制服は使えない。結局、サイズが大きくてまだ着られない頂き物のスーツのズボンだけを無理やり穿かせ、上は濃紺のシャツで何とか格好を付ける。<br /> 息子は六歳にして、もう葬儀は四回目だ。<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/06/blog-post_28.html">前回</a>はまだ三歳だったが、今回は小学生。しかも亡くなったのは、ほんの二週間前に大好きな煮豆をたくさん作ってくれた、優しいおばあちゃんだ。<br /><br /> 家族みんなで装束を着せ、お棺に遺品と花を入れて、フタに石で釘を打つ。促されて息子もトントン、と石を打つ。無言で横たわるおばあちゃんを前にした息子の表情からは、特に何も読み取れない。<br /> 進行役の方々の、大仰なほどの声音。「どうしてみんな黒い服を着てるの?」三年前にはしなかった質問を、六歳になった息子は口にする。「悲しい気持ちを表すためだよ」。こんな答えで合ってるかしら、と少しどぎまぎしながら答える私。<br /> 葬儀が始まる。お経にお坊様のお話。仏様の弟子、命のふるさと。そんな言葉が耳に残ったらしい。<br /> 「いのちのふるさとって、どこ?」。息子の問いかけに、さすがに息を飲んだ。「……天国じゃない?」「ふうん」。息子は腑に落ちないのか、葬儀の後も、急いで帰京した新宿駅のエスカレーターでも、思い出したように口にした。「いのちのふるさとって、どこなの?」<br /><br /> 人のいのちはそこから来て、そこへ帰るんだと思うよ。生きてる人には場所は分からないんだよ。「ふうん」と呟いた後、息子は「ふるさとは、ジャジャジャポン……」と歌い出した。ああ、それでか。少し拍子抜けした後、妖怪ウォッチの世界も天国も、息子には地続きなのかもなあ、とぼんやり思う。<br /><br /><a href="https://get.google.com/albumarchive/104781689267831628931/album/AF1QipPMiNdYYo4pt3zps9_AFgJ03AzGyXfXTLTwIwa1/AF1QipObY9cY0COFs_kXt5praZc6hxh63lgb9-oLwHM2?hl=ja&authKey=CNKg1fXv09eU6QE" imageanchor="1" ><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlYQ8fI-If6Uo2T0Oz4FlSflNAFA-S_-Mux0RX0ALXJG0HmHutyeeepp6cb8zQj0RojuJXIyrLkpg-8qRR0sc-F6e-caZSs3GNYgQ5K8Q5LuJ7YzNAGzv94rbsIgnvZ-2RutTrPhHZu97P/s320/20160907.jpg" width="124" height="175" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-1183917104913657632016-07-29T11:08:00.000+09:002016-09-07T14:16:25.851+09:00星を観る人 「すいきんちかもくどてんかい、と覚えてね」。解説のお姉さんがそう言うたびに、脳裏に「え、めい(冥王星)は?」というセリフが浮かぶ。<br /> 小さな違和感に囚われていると、隣席の息子の手が触れた。生まれて初めて見る真暗闇の星空(疑似ですが)は、やはり少し怖いらしい。<br /><br /> 冥王星が「太陽系第九惑星」の地位を失ったのは2006年。ヤマト世代の相方が「ガミラスは、デスラー総統は!?」と叫んだあの日から、もう十年。<br /> ぼくらの太陽系、と題された子ども向けプログラムに、冥王星は一切、登場しなかった。そうか、我が家の小学一年生は惑星・冥王星を知らずに育つのか。星空(疑似)を見上げながら、ぼんやり思う。<br /> 区のプラネタリウムは数百円で楽しめて、冷房も効いていて図書館もある。庶民には有り難い場所だ。子ども向けのこの時間は「おしゃべりOK」。でも星空に圧倒されてか、子どもたちは案外おとなしい。<br /><br /> 金星まで13年11ヶ月、地球まで19年、火星まで29年2ヶ月。天空のスクリーンに数字が浮かぶ。太陽から飛行機で行った場合にかかる時間だという。子どもにも分かりやすく、という配慮であろう。<br /> 生まれたときに出発しても大人になっちゃうね、と笑っていられたのはこの辺までで、木星まで98年11ヶ月、土星まで181年4ヶ月、海王星まで570年9ヶ月(!)となると、もう絶句するしかない。<br /> 壮大な宇宙のロマン。さすがにピンと来なさそうな息子の両脇で「そんなに燃料、もたないよ」「そもそも空気がないと飛行機飛ばないし」と心の中でツッコミを入れる、ロマンのかけらもない大人たち。<br /><br /> プラネタリウムに足を運んだのは、息子が学校の図書館で借りた本がきっかけだった。宇宙の謎を子ども向けにクイズ形式で紹介したその本に感化され、にわかに我が家で宇宙熱(?)が盛り上がる。<br /> 施設内の図書館で「銀河系・最新版」を謳う雑誌に見入る私の横で、相方が「アポロ11号」本を読みふけっている。色鮮やかな星雲の写真、遠い星々をめぐるストーリー。そう、私も「宇宙の本」が大好きな子どもだった。残念ながら「大好き」で終わってしまったけど(文系……)、子ども向けのSF小説を胸躍らせて読んでいたのは、よく覚えている。<br /><br /> いつか人類が気軽に宇宙に行ける日が来るのだと、子どもの頃は思っていた。今はもう、思わないけど。<br /> 発展ではなく衰退への道を歩み出しているのかもしれないこの星の上で、私より先の時間まで息子は生きる。90歳まで生きたとすれば22世紀だ。そのとき息子は、何を見るのだろうか。<br /> 冷房の効いた図書館で、星々の写真を眺めながら、そんなことをぼんやり思う。まさか宇宙人は攻めて来ないと思うけど。いや、まさかね……。<br /><br /><a href="https://get.google.com/albumarchive/104781689267831628931/album/AF1QipPMiNdYYo4pt3zps9_AFgJ03AzGyXfXTLTwIwa1/AF1QipOb2BLMEmCRO3kb2ziQOHO3iL9dz4qzPNWNzZ7A?hl=ja&authKey=CNKg1fXv09eU6QE" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiV2PzJHhqB1gNb8e4dNpSqnOz990r1qGv_DKcZi55kpZOYlVy7I1pTmTL-_k3iQQa4o0IG6ILCpPQzTsYIA5jds5nrriTPRyiezLHm9C3WHNO8gjvdxETiN-InExeBQXAdPd-BKS7Dv-vQ/s320/20160729.jpg" width="248" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-48828815727409198612016-06-27T17:31:00.000+09:002016-06-27T17:31:31.074+09:00“お母さん”になった日 どうやら、誰かに言われたらしい。パパか祖父母か友人か、たぶんそのへんに。<br /> 「『ママ』は幼稚園とか小さい子が使う言葉だよ。小学生になったら『お母さん』って呼ぶんだよ」。<br /><br /> ああっという間に、驚くほどキッパリと。息子の私の呼び名は「おかあさん」に変わった。<br /> 言い間違いも、言い淀みもない。迷わず真っすぐ「ねえ、おかあさん」。むしろ私のほうが、未だに自分を指して「ママがさぁ〜」と言ってしまう始末。<br /> そ、そうか。「ママ」は、もう終わりか。「ママ」と呼んでもらえる期間は、意外と短いものなのね。入学して二ヶ月ちょっと。とっとと成長する息子に、面食らう母。<br /><br /> 「ママ」というのは日本の一般的な感覚で言えば幼児語で、そのベッタリ甘いニュアンスに違和感を抱く人もいる。私も独身の頃や出産前は「『ママ』ってガラじゃないしなぁ……」なんて思っていた。<br /> しかし出産して怒濤の育児が始まれば、そんな思惑はどこへやら。「ママ」「パパ」という単語は短いので親も子も使いやすく、早い話がラクだし便利なのだ。泣く子とラクと便利さには勝てない。<br /> 「<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/09/blog-post_4.html">ママ、わらってる?</a>」と、あどけない声で尋ねられた日々も、今は昔。もう私は「ママ」ではないのだ。寂しい。本音はすごく寂しい。何もそんな急に変わらなくても……ぶつぶつ(←往生際が悪い)。<br /><br /> 小学生の母となった「おかあさん」は結構大変で、毎日、学校からの各種プリントに目を通し、これは○日までに記入して提出これは名前を書いて×日までにと、煩雑な仕分け(!)が日々押し寄せる。<br /> 小学生の親御さんは皆、苦もなくこなしているはずなのに(しかも兄弟の人数分)、慣れないボンヤリ系新米母の私は未だに「ぎゃあ、○○忘れたあ!!」と叫んでは、息子に不安がられている。<br /> 「おかあさん、マルつけしてー」。息子がプリントをヒラヒラさせてやってくる。学校の指示により、一部の宿題の採点も親の役目だ。子どもの宿題遂行に親を巻き込もうという、学校の強い意志を感じる。<br /><br /> 息子が卒園した幼稚園で同窓会があった。教室から流れるピアノの音に「ああ、幼稚園だなあ」としみじみする。懐かしい友だちに久しぶりに会った息子は、閉園時間を過ぎてもなかなか帰ろうとしない。<br /> ある朝、「頭が痛い」と学校を休んだ息子。しかし微熱はすぐ下がり、昼食を食べたら妙に元気になって、家中に好きなオモチャを広げて上機嫌……。<br /> 「疲れが出たんだね」と周りに言われて、複雑な気分になる。幼稚園の頃は、毎日そうやって遊んでたのにね。小さな身体で彼なりに、急な変化を必死で受け止めていたのかも。ママも頑張らないとね。早く「おかあさん」になれるように。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgZ0m2CXO1q80qKLbUckprNUEiwpa87f0St9nLG5KVpVaxjnURy-ZvSTBRt2k4DVc1YCACJER-kWEzIIljakL-KHH5O0oGrmWl2GbXUrKWWN7v6eOqtZ8WLoDn-cafIklEfIbH3YmZw-jtt/s1600/20160627.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgZ0m2CXO1q80qKLbUckprNUEiwpa87f0St9nLG5KVpVaxjnURy-ZvSTBRt2k4DVc1YCACJER-kWEzIIljakL-KHH5O0oGrmWl2GbXUrKWWN7v6eOqtZ8WLoDn-cafIklEfIbH3YmZw-jtt/s320/20160627.jpg" width="245" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-13756880857799397992016-05-30T15:45:00.000+09:002016-05-30T15:45:18.408+09:00おカネないだぁ!! 相方は幼い頃から「ウチは貧乏だ」と言われて育ったという。そのせいか、今でも時々「ウチは貧乏だったから(○○が買えなかった、できなかった)」という言葉が会話に出てくる。<br /> 義父は学校の教員だった。確かに教員は民間と比べて安月給だと言われた時代もかつてあったが、それでも一応は公務員だ。持ち家もある。<br /><br /> それ「貧乏」じゃないから(断言)。おそらく堅実な義父母からの「金持ちではないのだから贅沢するな」という教えであったのだろう。<br /> おかげで相方は、大変に経済観念の発達した(?)大人になった。スーパーでは見切り品を探し、日用品も衣類も高いものには手を出さない。節約大好き、要はケ○……まあ、浪費家よりはいいかな、うん。<br /><br /> 少し前、お子さんのゲーム機を、約束を破った罰として豪快に破壊した(!)著名人ママが話題になった。耳目を集めた大きな理由は、破壊したのがゲーム機という高額品だったことだろう。<br /> オモチャをたくさん持っている子もいれば、そうでもない子もいる。早い子は幼い頃から、そのことに気づく。経済的な理由もあるだろうし、親の教育方針、運や単なる気まぐれにも左右される。<br /> 平等でも公平でもない世界を前にして、子どもたちは何を思うのだろう。時々、そんなことを考える。<br /><br /> ちなみに我が家のオモチャ事情といえば、ハハたる私がボンヤリなせいで(すいません)、気づいた頃にはブームも下火、ということが少なくない。園や学校で最新の流行に触れる息子は、もしかすると寂しい思いをしているのかもしれない。<br /> とはいえ息子も少し変わったところがあって、幼稚園の頃、お友だちが話題にする「<a href="http://yw.b-boys.jp/member/menus/index/">妖怪メダル</a>」が何のことか分からなかった息子は、紙に絵を描いて切り抜いて、「妖怪メダル」を自作し始めた。<br /> メダルの次は、紙を半分に折って画面らしき枠を描いて「これ、ぼくの3DS!」……さすがに不憫に思わなくもない、実は3DSを持っている母。<br /><br /> 親の勝手な思いかもしれない。けれど首を真下へ折って小さな画面を一心不乱に覗く息子の姿を、まだ見たくなかったのだ。しかし息子が、あれだけ流行った「妖怪メダル」を知らなかったのは、多分にテレビに疎い私のせいである。反省して、昨年はサンタさんに<a href="http://yw.b-boys.jp/member/products/watch4/">妖怪ウオッチ</a>をお願いした。メダルを入れると妖怪が口上を述べる。なかなか楽しい。<br /> 「お金ナイダー」という妖怪がいる。メダルをセットすると「おカネ、ないだあ!!」と元気に叫ぶ。相方がたいそう気に入って、一緒に「おカネ、ないだあ!!」と叫んでいる。お金はなくとも明るい家だったと、息子の記憶に残ってくれれば嬉しい。そんな、いささか都合の良いことを願う母である。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiI86J2d2_kuL8s-WSYLNLxPfYxS4dvzX1LhQC3c5YruG7Q-TS6ehWbYvtqSbS3AZghZjduwx9YBacroPA22TmTdQd5Ay8dGSRqwAxsAwlEGuLnjhNMaZVkYuvFtRqb8mOkFBtY9Y6NGDGo/s1600/20160530-2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiI86J2d2_kuL8s-WSYLNLxPfYxS4dvzX1LhQC3c5YruG7Q-TS6ehWbYvtqSbS3AZghZjduwx9YBacroPA22TmTdQd5Ay8dGSRqwAxsAwlEGuLnjhNMaZVkYuvFtRqb8mOkFBtY9Y6NGDGo/s320/20160530-2.jpg" width="245" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-88836966609677327252016-04-21T12:21:00.000+09:002016-04-21T12:21:10.824+09:00新入生と新米母 四月一日。前月に幼稚園を卒園したばかりの我が家の六歳児は、満開の桜の中、小学校へ初登校した。息子と二人、緊張の面持ちで校門をくぐる。<br /> 入学式は、まだ先だ。学校は春休み中。息子の頭には黄色い安全帽ではなく私物のキャップ、背中に揺れるのは学用ランドセルではなく、使い古したリュックサック。そう、いわゆる学童保育である。<br /><br /> 正面玄関の前には、学童担当の先生と、世話役らしき上級生がスタンバイしていた。この日が楽しみすぎて数日前から大騒ぎだった息子は、上級生に手を引かれ、振り向きもせず校舎へと消えていく。<br /> 「お母さまも一緒にいかがですか? お部屋の確認だけでも」。先生の言葉を丁寧に断って、私も学校を後にする。説明会や登録時に何度か足を運んだから、私も息子も部屋は見知っている。<br /> 好奇心旺盛で、預けられ慣れているせいか妙に適応力のある息子は、緊張しつつも楽しい一日を過ごすだろう。何も心配ない。安心して仕事へ向かう私。<br /><br /> おばあちゃんに手を引かれた子、赤ちゃんを背負ったママと一緒の子。帰宅時間も早い子から遅い子まで様々だ。いろんな家庭、いろんな事情。その多彩さは「似た者が集まる」傾向の強い幼稚園の比ではない、そんな話を、先輩ママから何度か聞いた。<br /> 幼稚園の三年間を無事終えて、子育てやママ友付き合いにも多少は慣れた気でいたけど、小学校への適応が必要なのは息子よりむしろ母たる私のほうかも。後ろ髪を引かれながら、そんな予感に怯える私。<br /><br /> 一人っ子を育てる私は、いつまでたっても新米母で、幼稚園へ入る時も小学校へ上がる時も、いつも不安でいっぱいだ。もの馴れた様子で余裕のある「何人目かのママさん」が、眩しくて仕方がない。<br /> 何年経とうと私は決して、ああはなれないのだ。それは仕方がない。「新一年生の保護者です。学童のお迎えに来ました」。インタフォンで告げるとオートロックが開く。こんなことでもドキドキする。<br /> 「とってもいい子でしたよ、先生の話もよく聞いて……」。学童の部屋の入り口で、先生の言葉を聞きながら息子を待つ。大人ウケ抜群の<a href="http://www.kinocoookubo.com/2014/02/blog-post_26.html">外ヅラの良さ</a>を、相変わらず発揮する息子。いやマジで少し分けてくれ、その世渡り上手(切実)。<br /><br /> ワクワクの入学式を終えた翌日は、どしゃ降りの大雨。集団下校と知りながらも「息子を信じて家で待つ」チキンレースに負けて家を出たところで、引率の方と数人のお友だちと一緒に息子が現れた。<br /> 「ちゃんと待っててよ〜」と不満顔の息子と共にお友だちを見送ると、その後から「こんにちは」と一人の女性が現れた。聞けばお友だちの一人のお母さんだという。「心配で、ずっと後をついて歩いてるんです」。わかります。雨の中お疲れさまです。私もいろいろ頑張ります……。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjieAdL3CdDeVmn9OGuRqBJuTZgXvcEmYiBDck_ta8ZJYvAewjFepd_HDMFhAgaZahvHbNryPduZxqs2lhFIYSatDw-xk-VBdEv_XnqmnGA4K74tNtHk8-2i9kDD6TvMHjOr9_dR9vagI3p/s1600/20160421.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjieAdL3CdDeVmn9OGuRqBJuTZgXvcEmYiBDck_ta8ZJYvAewjFepd_HDMFhAgaZahvHbNryPduZxqs2lhFIYSatDw-xk-VBdEv_XnqmnGA4K74tNtHk8-2i9kDD6TvMHjOr9_dR9vagI3p/s320/20160421.jpg" width="124" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-50107910576309255892016-03-28T17:45:00.000+09:002016-03-28T17:45:49.093+09:00世界に一人だけ 「い〜つのことだか〜、思い出してご〜らん〜♪」<br /> <a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/09/blog-post.html">息子が口ずさむ歌が、季節と共に変わっていく</a>ことに驚いた日から、早くも三年近い年月が経った。卒園を控えた三月、息子が家で歌うのは、いわゆる「卒園ソング」ばかりである。<br /> 「今日、幼稚園で何したの?」と尋ねても、答えはいつも「卒園式の練習」……。そうだよね。他にもう、することないもんね、と妙に腑に落ちる私。<br /><br /> 「その歌、ママも幼稚園のときに歌ったよ」「へえ〜!」息子が目を丸くする。この三年間、息子を通じて多くの歌に出会った。園の教室の一角には、あまりにも自然な姿で黒いピアノが佇んでいる。<br /> 「さくらのつぼみもふくらんで〜♪」。絵を描きながら、折り紙を折りながら、息子はまるで息をするように歌い続ける。こんなに歌と音楽に囲まれた日々は、もう訪れないかもしれないと思うと、やっぱり寂しい。最近は「学校がいかに厳しい場所であるか」を、息子に言い聞かせることに熱心な私。<br /><br /> 学校では、先生が優しい声で「○○くーん」と下の名前を呼んではくれない。名字に君付けか、もしくは呼び捨てか。たとえ泣いても「どうしたの?」と、同じ目線で優しく尋ねてはくれない。叱られるか放置であろう。何という違い!!<br /> 学校の先生は、一緒に遊んではくれない。学校は成長の場であると共に評価にさらされる場でもある。幼稚園が母の胎内なら、学校は弱肉強食の実社会?ああ恐ろしい。母は不安で心配でたまらないのだが、息子は自分で紙でテキトーに「百点満点のテスト答案」をでっちあげては喜んでいる。ああ心配……。<br /><br /> 「せ〜かいにひとつだけの花〜♪」。息子の歌を聴きながら、ああ、それも卒園式で歌うのね、とぼんやり思う。息子が無邪気な声で尋ねる。「この歌、ママも幼稚園のとき歌った?」……まさか。だってママ、その歌のおじさんたちと同世代だし(笑)。<br /> 赤ん坊時代、<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/08/blog-post_26.html">息子の名前でひたすら替え歌をしていた</a>名残で、今でもつい歌ってしまう。「世界に一人だけの○○くん〜♪」。すかさず「ちがう!」とツッコミを入れる、たった六年ですっかり俗世間に染まってしまった息子(……成長したとも言う)。いや違わないから、と心の中でつぶやく母。<br /><br /> 卒園式の前日は、学期終わりの終了式。帰り際に息子の名を呼ぶ声がして、預かり保育でよく一緒になった、一歳下のYくんが駆け寄ってきた。<br /> 「○○くん、しょうがっこうでもがんばってね」。息子より体の大きな腕白ボウズのYくんが、そんなことを言ってくれるとは思わなくて、不覚にもホロリとする。不安も戸惑いも未練も躊躇も、時の川は容赦なく明日へと押し流していく。歌って笑っていればよかった幸福な幼児期が、もうすぐ終わる。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEim3LkbPvrQbcfxXU5Oxm86ha1oK7e9MoRVUomte9y7WVd_IbA0sFz0e0e0DnPbLwo1r06gDt3mcwNVsbx5VuR5AO35rtL6nYracifA_A10Xclsd4pjwZVAr7wtXmRQgvBRNTvLYvpLcwVQ/s1600/20160328-2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEim3LkbPvrQbcfxXU5Oxm86ha1oK7e9MoRVUomte9y7WVd_IbA0sFz0e0e0DnPbLwo1r06gDt3mcwNVsbx5VuR5AO35rtL6nYracifA_A10Xclsd4pjwZVAr7wtXmRQgvBRNTvLYvpLcwVQ/s320/20160328-2.jpg" width="248" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-87661725351889216152016-02-25T14:52:00.002+09:002016-02-25T14:52:55.804+09:00心からの贈り物 「いやホント、つまらないものなんで!!」。小さな紙袋を差し出しながら、私はほとんど絶叫していた。「本当に、大したものじゃないんで!!」<br /><br /> 「気にしないで。ウチはもう着れないし」。おっしゃる気持ちはよくわかる。私も相手の立場だったら、きっと同じことを言うに違いない。<br /> 息子にと、お古の服を頂いたのだ。とはいえ新品同様の、相当な高級品である。差し出した紙袋の中身は、少なくとも「つまらない」ものではなかった。小ぶりで値段こそ高くはないが、相手に負担なく受け取ってもらえるよう、選び抜いた品である。<br /> 「そう? じゃ、遠慮なく」。私の絶叫(というか懇願)に、相手の方も最後には受け取ってくださった。子どもの頃、大人たちが「つまらないものですが……」と菓子折りを差し出す場面を、幾度となく目にした。なぜ「つまらないもの」を贈るのか。<br /> その答えを、絶叫しながら悟った私である。<br /><br /> 猛威を振るったインフルエンザに、健康が取り柄の息子もついに罹患。幼稚園は出席停止、私も慌てて仕事を休む段取りを付ける。幸い症状は数日で治まり、規定通り休んでから息子は園へ、私は仕事へ復帰した。仕事関係者への手土産をぶら下げて。<br /> 今回の目的は、お礼というよりお詫びに近い。お詫びに「つまらないもの」を贈るわけにはいかない。<br /><br /> 「これ、本当においしいんで!!」。私は叫んだ。誰でも病気にはなる。お互い様なのだから助け合うのは当然、そう考える人は多い。だからこそ、気兼ねなく受け取ってもらうためのひと押しだった。<br /> 高価ではないが品があり、何よりおいしい、大好きな洋菓子。「もう大丈夫? 大変だったね」と気遣ってくれる方々に、私は心から叫んだ。「これ本当においしいんで、よかったら食べてください!!」<br /> 「おいしかった、ありがとう」。そんな言葉に迎えられて、また仕事の日々へ戻る。ひとりじゃないって幸せだなあ、と唐突に思う。<br /><br /> 上京した両親が、都内の駅で「富山物産展」に遭遇したという。両親は富山出身だ。特に珍しいものはなかろうと思いきや、『月世界』があったよ、懐かしいね、と二人して嬉しそうに言う。<br /> 富山では老舗の、贈答用の菓子だと母が教えてくれた。父や母が子どもの頃、お使いで店へ行くと、製造過程で出た切れ端を、たっぷり袋に入れて渡してくれたのだという。父が言った。「甘いものなんて食べられない時代だから、嬉しくてねえ」。<br /> 若い頃は面倒だった贈り物文化が、今ではそうでもない自分がいる。回復すると真っ先に「○○ちゃんにもらったチョコ食べる!」と叫んだ息子は、どんな贈り物を選ぶ人になるのだろう、とふと思う。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi_PDTZeNPyTSVeqShcVOQhhMuPRaqo1qbG5Po81hd7TxKbW6nOhFEiczlJAzlhyphenhyphen1E4NP1np3QANiDlSZAEpQrZDTwblE23bCXa6aSbLDUbt-bo5eOyVK_e8fLUB7XMUr7AsADnyMVIbqxJ/s1600/HM_20160225.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi_PDTZeNPyTSVeqShcVOQhhMuPRaqo1qbG5Po81hd7TxKbW6nOhFEiczlJAzlhyphenhyphen1E4NP1np3QANiDlSZAEpQrZDTwblE23bCXa6aSbLDUbt-bo5eOyVK_e8fLUB7XMUr7AsADnyMVIbqxJ/s320/HM_20160225.jpg" width="246" align="top" ></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-82445416824531550382016-01-25T18:25:00.000+09:002016-01-25T18:25:41.741+09:00さらばスットコ鳥 息子が大好きだった絵本『<a href="http://www.iwasaki-penelope.com">ペネロペ</a>』シリーズの舞台はフランスだ。幼稚園へ通う三歳の女の子ペネロペは、夜になると自分の部屋で一人で就寝する。<br /> 「わあ、ペネロペすごいね。おねえさんだねえ」。いくら親が煽り立てようが、日本の幼児である息子は親と同じ部屋で、しかも添い寝なしでは眠れない。<br /><br /> 子育てのなかでも「寝かしつけ」は、かなりハードな部類に入る気がする。赤子時代の「<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/09/blog-post_9.html">抱っこの無間地獄</a>」もキツかったが、少し成長してからも続く「添い寝からの寝落ち(疲労のあまり自分も一緒に寝てしまう)」も、また相当に厄介である。<br /> 「寝てもいいじゃない」と周囲は言う。体力や健康を考えたら、それが正解だろう。けれど常に「やりたいこと」を数多く抱える私には、寝落ちは虚無でしかない。「やりたいのにできなかった」後悔が、毎日静かに溜まっていく。着実に人生時間は減っていき、それは猛烈なストレスとなって心身を襲う。<br /> 貴重で得難い「自分の時間」を一分でも多く絞り出すため、祈る思いで添い寝する。そんな夜を、もう何年も過ごしてきた。永遠に続くかと思うほどに。しかし「永遠」は、この世のどこにもない。<br /><br /> 「早く一人で寝てほしいなあ」。何気なくつぶやいた私に、ある日、息子がアッサリ言った。「うん、ぼくもう一人で寝るから、ベッド買って」。<br /> イケアで見た子ども用ベッドが欲しいと前から言っていたのだが、一人で寝られるようになったらね、と言い聞かせていたのだ。とはいえ息子の部屋は、今はまだ物置状態。急に言われても困る、という思いよりも先に、猛烈な寂しさにとらわれる母。<br /> い、いきなり個室で一人寝じゃなくてもいいんじゃない? まずは添い寝なしで寝てみるとか。そもそも、一人で寝られるの? 昨日も「じゃ、おやすみ」と部屋から出ようとしたら大泣きしたじゃない。<br /><br /> じゃ、六歳になったら、添い寝なしで寝ようか。「うん」。大丈夫? 本当にできる?「うん」。迷いなく頷く息子。そして六歳の誕生日を迎えた夜、息子はいつものように大勢のおともだち(ぬいぐるみ)を両手に抱え、アッサリと一人で眠りについた。<br /> 昨日までの大泣きは何だったのか(呆然)。夜中にトイレに起きても、親の顔も見ずに一人で寝室へ戻っていく。パパが寝かしつけのときに登場していた<a href="http://www.kinocoookubo.com/2015/07/blog-post.html">スットコ鳥</a>も、気づけば口の端にも上らない。<br /><br /> 数時間後、私も寝室へ。息子の寝顔に温かい気持ちになる(ただし寝相は悪い)。案外、部屋とベッドを与えれば、もう一人で寝られるのかもしれない。でも、もう少し、隣でこの寝顔を見ていたい。<br /> そんなふうに思いながら目を閉じる。母ちゃんのワガママでごめんね。それまでに頑張って、あの部屋片付けるからね。何年かかるか分からないけど。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj9l-F8uNcBVRTmSlwm8X4exvIthQ8w7T3DNR3iSU4Wo-yTYhyphenhyphenTG2PTZORC4ZFvCR4Eax4Ij1XRU413lsBOsFbTDH8Tt3dMSK-xY060EKVnMQ9-jw8AlAU5l8TxQzz-7ZKQHe3Pmg033GpJ/s1600/20160125.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj9l-F8uNcBVRTmSlwm8X4exvIthQ8w7T3DNR3iSU4Wo-yTYhyphenhyphenTG2PTZORC4ZFvCR4Eax4Ij1XRU413lsBOsFbTDH8Tt3dMSK-xY060EKVnMQ9-jw8AlAU5l8TxQzz-7ZKQHe3Pmg033GpJ/s320/20160125.jpg" width="247" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-59794398504829231672015-12-24T15:08:00.000+09:002015-12-24T15:08:59.844+09:00電飾に願いを 住宅街の家々の軒先に、きらびやかな電飾が灯り始めると、ああ冬が来たのだな、と実感する。ここ数年、すっかりそんな景色が定着した。<br /> いわゆる高級住宅地(の片隅にある古アパート)に住んでいたことがあるが、この季節になると繰り出される壮大な電飾合戦は、どの家も仰け反らんばかりの豪華さだった。まばゆい光の中を歩くたびに、別世界の存在を痛感したものである。ああ庶民。<br /><br /> そこまでいかなくとも、しんと冷えた空気の中、玄関脇のシンボルツリーに点々と、まるで星のように輝く電飾は凛として美しい。日の落ちた帰路を、白い息を吐きながら急ぎつつ、つい見とれる私。<br /> 家全体をラッピングするような大掛かりな装飾で魅せる家。子どもウケするポップなキャラで勝負する家。控えめだけどさりげない明かりを、帰路にそっと添える家。毎年、素敵なイルミネーションを見せてくれる家は、今年もと勝手に期待してしまう。<br /><br /> 今の家に越してきたのは去年のクリスマス前だった。まだ土地勘もあやふやな街で、道々にぽつぽつ輝く電飾は、文字通り帰路を照らす道しるべだった。<br /> あのキラキラが見えたら、もうすぐおうちだね。そんなふうに言いながら、慣れない夜道を車を気にしつつ、息子の手を引いて歩いた。光を見上げる息子の丸いつるつるした頬を、電飾の明かりが照らす。<br /><br /> 子どもというのは「音の出るもの」、そして「光りモノ」がとにかく好きらしい。夏祭りやイベントの景品は「光るオモチャ」が定番だ。光る棒に光る輪っか、光るペンダントに光る指輪、光る腕時計に光るメガネ。買った覚えはないのに、いつのまにかオモチャ箱には光りモノが増えている。<br /> 光るクリスマスツリーに光るロウソク。それに今年は、おじいちゃんにもらった「光るクリスマスカード」が加わった。光と共にクリスマスソングが流れるカードに息子はすっかり夢中。家中の「光るオモチャ」を光らせて、気分はクリスマスパーティ。サンタにトナカイ、スノーマンも、もちろん一緒だ。<br /><br /> いろいろあった転居騒動の末、越してきて一年が経った。少しは慣れてきた道には、一年前より多くの電飾が輝いているように見える。角を曲がる前から、少しワクワクしている自分に気づく。しんと冷えた空気の中、馴染みの電飾が見えると、もうすぐ我が家だと心が温まるのを感じる。<br /> 早くも暗くなり始めた冬の午後。すでにぽつぽつと電飾が灯る道を、小学生たちが駈けてゆく。来年にはこの光の中を、ランドセルを背負った息子が通るだろう。黄色い帽子を頭に乗せて、帰路を急ぐ小さな息子の行く手を、華やかな電飾が明るく、温かく照らしてくれますように。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6_PGQJ5PJn07a4ex9HAsSrkjMJtot5FbQKH9pEkFSU-oTLeFCoinbU1aAb30oeumpmgt1RCD_LfJgvW67wqB9Bm3jhXIr3DM4BNzf-deRb6Jb-ogB1ejaEAS7nFtzcggOPs2vl1wg5Qw2/s1600/20151224.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6_PGQJ5PJn07a4ex9HAsSrkjMJtot5FbQKH9pEkFSU-oTLeFCoinbU1aAb30oeumpmgt1RCD_LfJgvW67wqB9Bm3jhXIr3DM4BNzf-deRb6Jb-ogB1ejaEAS7nFtzcggOPs2vl1wg5Qw2/s320/20151224.jpg" width="233" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-45558930848155181562015-12-07T10:49:00.000+09:002015-12-07T10:49:19.861+09:00中の人の正体 二十代の頃、幼児教育番組の制作に下っ端として携わったことがある。かわいい着ぐるみたちが、暑いスタジオのカメラの前、照明の下で演技できるのは三十分が限界だ。休憩の声がかかり、着ぐるみの「頭」を外した演者さんのもとへ、濡れタオルを手に駆けつけるのが下っ端の仕事のひとつだった。<br /><br /> ショートヘアから流れ落ちる大量の汗。その現場の「中の人」は、いかにもスポーツをやっていそうな雰囲気の、若い女性が多かった。「着ぐるみの中の人」というと、私は今もそんな女性が思い浮かぶ。<br /> 着ぐるみの演技は難しい。手足の可動域のみで喜怒哀楽を表現するのは至難の業だし、キャラクターごとの個性も求められる。たとえアルバイトでも、ダンスや演劇など、何らかの身体表現をそれなりに学んだ人でなければ、こなせないに違いない。<br /> そんなふうに思っていたから、後年の「ゆるキャラ」ブームの際、自治体の職員さん(すなわち素人)も「中の人」を務めていたと聞いて驚いた。あの、若く体力には自信がありそうな彼女らですら、あんなにキツそうだったのに……。たとえ立っているだけでも私には到底ムリである。若くないし(涙)。<br /><br /> ベビー用品店、遊園地、ショッピングセンター。小さな子どもが集まる場所で、着ぐるみに遭遇する機会は結構ある。コミカルで愛らしい着ぐるみに大喜びで群がる子どもは多いのに、恐がりで慎重派な息子は、いつも遠巻きに眺めるだけだった。<br /> それでも、着ぐるみと一緒に撮った微笑ましい写真が何枚かは残っている。怖いのか緊張したのか、どの写真も微妙な表情で、親としては残念だが仕方がない。ちなみに私自身もウン十年前の、「リカちゃん」の着ぐるみと一緒に撮った写真が残っている。<br /> 大人の背丈をもはるかに超えた、巨大サイズのリカちゃんを見て、幼い私は相当泣いたらしい。ムリもない、と今見返しても思うほど、ビッグな頭(当時)のリカちゃんはちょっとコワイ。<br /><br /> 手作りの衣装を着けてマスクをかぶりステージへ。瞬間、沸き起こる子どもたちの大歓声。ああ、「中の人」たちは日々、この景色を見ているのか。そんな感慨が押し寄せて、さんざん練習したはずのダンスの振りを忘れそうになる。<br /> 夢中になって一緒に踊る子どもたちの最後列に、息子の姿が見えた。子どもたちの中で彼だけが、私の正体を知っている。どうも乗り切れない様子なのはそのせいか、それとも生来の慎重さのせいなのか。<br /> 知らないほうがいいこともあるよね、と少し申し訳ない気持ちになる壇上の母(マスク姿)。まさか自分の人生に、こんな日が来るとは思わなかった。「子どもが喜ぶかなあ」という思いだけで、人はここまで来れるらしい。いや、母ってスゴイ(……ちょっと違う)。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikeVFXGImHQBXtiMb9wyvqUfbXBLBf2s1E0LPRStEYB84A33PFBa5tyvRZXmbnyaVtC1opRISfhjb_PONVvtQU3SDkhlTp_BAvCLy_DG8oZUJXZK5a18wOQkHYsrUsLE7EC3knbTX86TeH/s1600/DSCF2607-5%257E2%257E2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEikeVFXGImHQBXtiMb9wyvqUfbXBLBf2s1E0LPRStEYB84A33PFBa5tyvRZXmbnyaVtC1opRISfhjb_PONVvtQU3SDkhlTp_BAvCLy_DG8oZUJXZK5a18wOQkHYsrUsLE7EC3knbTX86TeH/s1600/DSCF2607-5%257E2%257E2.jpg" width="247" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-77398789938820233512015-11-23T10:30:00.000+09:002015-11-23T10:30:14.704+09:00飲みたい夜に 大人には、どうしても飲みたい夜がある(……あるよね?)。ところが小さな子どもがいると、なかなか気軽に「飲みに出る」のは難しい。<br /> それでも最近は「子連れ歓迎」の居酒屋があったり、早い時間のファミレスでお酒やつまみを割引していたりと、パパママも外で晩酌を楽しめる環境が整ってきた。確かにそれは有り難い。でも正直、そういう店ばかりでは飽きが来る(……来るよね?)。<br /><br /> その日、私たちが向かったのは、ヨーロッパのバルを思わせる雰囲気のチェーン店。手作りの料理がおいしくて以前はよく訪れたが、出産後は足が遠のいていた。ソフトドリンクくらいはあるだろうが、基本的には酒を飲むための店であり、お子様向けメニューなどは存在しない。<br /> とはいえ外食好きな息子は好き嫌いもなく、食べ物さえあてがっておけば、大人しく座っていられるタイプだ。野菜の入った料理でも取り分けてやれば何とかなるかな、と店のドアを開ける。<br /> 「いらっしゃいませ!」明るい声に案内されて、窓際の禁煙席へ。客はそれなりに入っているのに、埋まっているのは禁煙席ばかり。喫煙席はガラガラだ。酒場なのに。そんな時代なのだな、と実感する。窓外に広がる夜の街に、息子はすっかり興奮気味だ。<br /><br /> 水とおしぼりを持ってきてくれたのは、三十代前後とおぼしき男性の店員さん。息子の前に置かれた水には、小さなストローが刺さっている。<br /> 相方がメニューを選ぶ。すると店員さんが「お子さんも召し上がられますか?」。相方が頷くと、こちらは鷹の爪が入っていますが、抜いてお作りしますか、こちらはコショウが効いているのですが、と、メニューごとに事細かに気を配ってくれる。<br /> 思わず周囲を見回す私。子連れ客は一組もいない。酒場なので当たり前だ。バル料理の味が濃いのも当然で、たまにだからと承知の上で、むしろ迷惑にならぬようサッと飲んで食べて帰ろう、そう思っていたせいか、思わぬ気遣いに驚きつつ恐縮してしまう。<br /><br /> おいしいお酒と料理に満足そうな相方、フライドポテトに夢中な息子。最後に頼んだのは、きのこのアヒージョ。子どもも食べやすいようにと、付け合わせのバゲットは薄くスライスされている。<br /> 以前、二人でよく行ったバーで、必ず頼んだメニューが砂肝のアヒージョだった。雰囲気のあるバーは、ある日突然、有名チェーンの居酒屋に変わっていた。懐かしい味を、小さな息子の横で思い出す。<br /><br /> 世間は子育て世帯に冷たい、そんなニュースも多いけど、そういう体験が全くないとは言わないけど、子連れのおかげで出会った親切も、決して少なくはない。これまで大勢の見知らぬ方々が、息子に笑顔を向け、声をかけ、気を配ってくれた。世の中には子ども好きな人がこんなに多いのか、と驚くほどに。<br /> 笑顔で息子に手を振る店員さんたちに、頭を下げつつ店を出る。幸せな時間をありがとう。そう心の中でつぶやきながら。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiFYDMSzW_TjZ71gveGpRVYvJMC4to1fR4n-yuzOfTamHfx0Hjx_OOiFD50TuHylT2YJti3ccKtsbgoVf_QbzYeZAikZhCY8y6kZdk-Ny2spKv9LQgDAiZoPV071ybXMX9GTdsRBq4lYAFO/s1600/20151121.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiFYDMSzW_TjZ71gveGpRVYvJMC4to1fR4n-yuzOfTamHfx0Hjx_OOiFD50TuHylT2YJti3ccKtsbgoVf_QbzYeZAikZhCY8y6kZdk-Ny2spKv9LQgDAiZoPV071ybXMX9GTdsRBq4lYAFO/s320/20151121.jpg" width="122" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-15336143811883553122015-10-21T15:12:00.000+09:002015-10-21T16:42:36.386+09:00素直になりたい 入園して数ヶ月後、最初の個人面談で、息子は担任の先生から、こんな言葉をいただいた。「○○くんは本当に、とっても素直で、まっすぐで……」。<br /><br /> 我が家の三歳児(当時)に、人生で初めて外部から下された人物評が「素直で、まっすぐ」。……これって、どうなんだろう? 私は内心、戸惑った。子どもって、基本的にはみんな素直じゃないの? 敢えて挙げる美点が「素直」……もしかして他に褒めようがないとか(←たぶん考えすぎ)?<br /> 戸惑った理由は他にもあって、右のような思考回路からも分かるように、実は私自身が全く「素直ではない」ので受け止め方が分からない(涙)。そうか。ウチの子、素直なのか。誰に似たんだろ……?<br /><br /> 素直の反対は天の邪鬼、それとも生意気? 自分で言うのも何だが私は昔から、生意気が服を着ているような人間(!)で、人の言うことを聞かない、頭でっかちで文句や理屈ばかり多いタイプであった。<br /> 良くも悪くもそれが自分で、そういう自分と好んで付き合ってくれた人や友人たちもいたわけで、今さら後悔はないけれど(してもしょうがないけど)、人生も中盤を迎えた今は思う。「素直」は侮れない。<br /><br /> 素直な人は、周囲の教えや助言を、まっすぐ受け入れることができる。特に、何かを学ぶ場面や成長過程において、素直さが有利に働く場面は少なくない。何より、素直な人は周囲に好かれる。誰だって付き合うなら、面倒な人間より素直なほうがいい。<br /> 以前は、人の言うことを素直に聞くと「自分」が消えてしまいそうで不安だった。ちっぽけで軟弱な「自分」を守ろうと必死だった。後悔はないけれど、反省はある。迷惑や心配をかけた人もいただろう。<br /> 言うまでもなく人の個性はさまざまで、素直さは、ある一面でしかない。逆に言えば、一面でしかない以上、恐れることはないのだ。無個性でいろ、とか自分を出すな、という意味ではない。そうではないのだ、と今は思える。素直になることで、むしろ自分という存在を受け入れてもらいやすくなる。その結果、開かれる世界はより広く、豊かになる。<br /><br /> 「ほら、指のかたちはこうだよ」。ピアノの前で、先生の言葉に素直に頷く息子の背中を眺めながら、「指の形が悪い」と言われ続けて練習が嫌になった、かつての自分を思い出した。「そう、上手!」。褒められて、息子はより慎重に指を下ろす。まっすぐで素直な息子が、私には眩しくて仕方がない。<br /> 素直な子どもは周囲に好かれる。この素直さは、もしかすると息子の武器かもしれないな、なんて思う。まあ、少し親バカ入ってますが(笑)、褒められてすくすく伸びる、よいサイクルが息子の人生を彩るようにと、母としては願わずにいられない。<br /> とはいえ、家ではすでに「ああ言えばこう言う」片鱗を見せている息子。小生意気な口ぶりは親そっくりである。「素直ないい子」は、<a href="http://www.kinocoookubo.com/2014/02/blog-post_26.html">外向けの顔</a>らしい。そんな社交性には未だに自信のない母は、感心しきりである。いやあ、アンタ、すごいわ。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhpQCBscWUy3huFRKvH8_7m1vXSqM0LqRi6sk2GCnOTfta_3JB1Et5yEP2bqsmljsoIu7CKAmfXSNT168GuEHsKaVlOpiKAtWejNCUUAS6VJhDrt11WEGC7t0Vf4ippH1-d7-llnWgpq6rd/s1600/20151021.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhpQCBscWUy3huFRKvH8_7m1vXSqM0LqRi6sk2GCnOTfta_3JB1Et5yEP2bqsmljsoIu7CKAmfXSNT168GuEHsKaVlOpiKAtWejNCUUAS6VJhDrt11WEGC7t0Vf4ippH1-d7-llnWgpq6rd/s320/20151021.jpg" width="124" align="top" /></a>大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-27453167060915256912015-09-30T11:02:00.001+09:002015-09-30T11:02:51.097+09:00九月のランドセル 子どもたちの嬌声が響く、休日の駅のホーム。パパと一緒のお出かけが嬉しくてハイテンションな男の子。まあるい目にぷっくりホッペ、か、カワイイ。四歳くらい? ウチの子より小さいかなあ。<br /> 向こうには、よちよち歩きの弟の手を引く、小さなお兄ちゃんの姿が。か、カワイイ。まだ三歳くらいかなあ。ウチの子より間違いなく小さいなあ……。<br /><br /> 最近、街で子どもを見かけると「カワイイ!」と同時に「ウチの子より小さい(年下)!」という感想が、セットで湧いてくるようになった。言い換えれば「カワイイ!」と感じる対象が、軒並み息子より年少の子ばかりになってきた。<br /> 考えてみれば無理もない話で、年明けに六歳を迎える息子は、来春には小学生なのだ。息子より年上というと、小学生になってしまう。いや小学生も可愛いけど、赤ん坊〜幼児の可愛さとは、やはり違う。<br /><br /> よちよち歩きの赤ちゃんを眺めながら、もうあんな日は来ないのだ、と寂しく思うのは、やはりトシのせいなのか。若いお母さんなら、こんな感傷は持たないんだろうか。<br /> 「あなたが赤ちゃんだったときはね」。時折、息子にこんなことを口走る私。「もう、ほんっとに可愛かったのよぉ」。息子は笑いながら、今だって可愛いよお、と少し不満げな顔をする。もうすぐ小学生の自分は「かわいいじゃなくて、かっこいいだよ」「かわいいは、女の子だよ」と訂正されたりもする。<br /> 「春から幼稚園」が「<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/06/blog-post.html">さいしょのおわかれ</a>」なら、小学校への入学は二回目のお別れ。何かが変わる。人生の流れ、時間軸。喜ばしい、祝福された、期待に胸膨らませた「お別れ」が、これから何度も訪れる。慣れるのも親の仕事なのだろうな、と思う。<br /><br /> 今どきの子は幼い頃から撮りためた写真や映像が大量にある。手づかみで食べ、奇声を上げ、指しゃぶりで眠る赤ん坊の自分の映像と、その姿に「カワイイ〜」と身悶えしながら見入る母(=私)を、息子は照れくさそうに、少し戸惑い気味に眺めている。<br /> 私の古い写真も実家の本棚にある。親が用意した服を着て、親が連れて行ってくれた場所で、無邪気に笑う幼い自分。くすぐったい記憶。いつか親元を離れ、先へ進むための土台。そんなことを考える。<br /><br /> 先日、久しぶりに会った知人は、息子を見た瞬間「うわ、大きくなった!」と声を上げた。やはり外向きの印象も、幼児から少年へ変わりつつあるんだろうか。庇護されるだけの存在から、尊重されるべき一個の人間へ。社会への歩みが、もうすぐ始まる。<br /> 十二月に届くはずのランドセルが、もう届いた。息子は大喜びだが、自分たちで選んだくせに心の準備ができていなかった私と相方は困惑気味だ。九月のランドセルは、どこか身構えていて空々しい。<br /> ひと通り確認した後は、丁寧に包み直して箱の中へ。まだ半年ある。君の出番はまだ先だ。君を相棒として迎える前に、愛らしい幼児期を卒業して新たな未来へ進む前に、まだやり残したことがある。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh6ckMuOMjcPVdpcN00JkCQ5v2GM4P6pcp5rioGP9DMjPMjYdd_sWb4EqCPOzTnLDJa26kfGhTG_to6u_7g1qMxDAGYXEBwjBXn6iKJKYB-AnUNljR2Qtcac6pC_kQtcHnkJH_SAYjcBzwg/s1600/20150930.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh6ckMuOMjcPVdpcN00JkCQ5v2GM4P6pcp5rioGP9DMjPMjYdd_sWb4EqCPOzTnLDJa26kfGhTG_to6u_7g1qMxDAGYXEBwjBXn6iKJKYB-AnUNljR2Qtcac6pC_kQtcHnkJH_SAYjcBzwg/s320/20150930.jpg" width="123" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-90159865510672057902015-09-13T12:36:00.000+09:002015-09-13T12:36:47.455+09:00偉いんじゃなくて 帰省だ何だで親族に会うと、必ず言われる言葉がある。「毎日、幼稚園へ送り迎えしてるの? すごいね」「毎日、お弁当作ってるの? 大変だねえ」「あなたが? ホントに!? 偉いねえ」……。<br /><br /> 昔からの友人にも、同じことを言われる。「あなたが?」というのは「(あの、何にもできない、する気もなかった)あなたが?」という意味である。余程、日頃の行いが悪かったらしい。<br /> 出産前は確かに皆さまが仰る通り「何もしなかった」私だが、今では園への送迎もするし息子の弁当も作る。夕食の支度もする。胸を張ることでもないが(ホントにねえ)、以前の私を知る人は相当に驚くらしい。とはいえ「成長したねえ」「大人になったねえ」と真顔で言われるのもどうかと思う(涙)。<br /><br /> 言うまでもなく私は、偉いわけではない。目の前に自分で産んだ、何もできない赤ん坊がいたら、自分の主義や性格や能力はどうあれ、とにかく育てるしかない。料理は下手だから作りません、ウンチは苦手だから放っときます、では赤子は死んでしまう。<br /> そんな現実に直面し、とにかく必死で食事を与え服を替え、人として生きるための基本を伝えようと奮闘する。それは、とても普通で自然なことだ。<br /> そこにあるのは愛とか義務とか責任とかいうことより、もっとずっと無意識的で本能的な何かで、それが「母性」とやらなのかもなあ、と思ったりする。<br /><br /> 子育ては大変だけど、それでも我が家は息子一人。子どもが二人いれば弁当も二人分、ましてや三人、四人といたら。そんな子沢山のママさんを見ると、つい「大変だね」「偉いねえ」と口にしそうになる。<br /> 「そんなことないよ」。しかし彼女たちは、大抵こう言うのだ。上の子が手伝ってくれるし、親も慣れてくる。三人、四人いるからといって、手間が三倍、四倍になるわけではない、と。<br /> それは嘘ではないのだろう。とはいえ実際の手間は確実に増えるはずで、なのに「大変でしょう?」という私の問いに、彼女たちはなかなか頷こうとしない。「そんなことないよお」と明るく笑うだけだ。<br /><br /> もし、私に二人、三人の子がいたら。大変も何も、とにかく三食食べさせ服を替え、必要なら全員分の弁当を作り、全員お風呂に入れて寝かしつけ、「大変でしょう?」と言われても、ピンと来ないかもしれない。目の前に育てるべき子が何人いようが、それはもう「育てるしかない」のだから。<br /> 生きるってきっとそういうことで、何も育児だけの話じゃなくて、「自分」というのは意外と柔軟で、必要とあれば自然と変わっていくのかもしれない。<br /> そんなことを思いながら、我ながら上々の手際で弁当を作る。昔の「何もしない」私が見たら、きっと腰を抜かすに違いない手早さで。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg1j0JNYIo0jOTf3eU7_TtRFkrNmJIbrKXmAANdBfcW7k0TQcT20oyuyxDpSuUtgwXSDXNbWZClx5PmCm1aXWafevFmqvJc9wzqpTdsBW0T1bZQ2DXlExwMbrWYoY4WLJb8XxT15RJYrkuV/s1600/20150913.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg1j0JNYIo0jOTf3eU7_TtRFkrNmJIbrKXmAANdBfcW7k0TQcT20oyuyxDpSuUtgwXSDXNbWZClx5PmCm1aXWafevFmqvJc9wzqpTdsBW0T1bZQ2DXlExwMbrWYoY4WLJb8XxT15RJYrkuV/s320/20150913.jpg" width="247" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-47188171249175839512015-08-26T16:36:00.001+09:002015-08-26T16:36:34.713+09:00手紙をください 「手紙」という概念を、息子はどこで知ったのだろう。そんな疑問を抱いてしまうほど、現代の私たちの生活に「手紙」という言葉は出てこない。<br /> 遠方の人とのやり取りは電話かメール。年賀状くらいは出すけど「手紙」とは少し違う。私が実家を出たウン十年前は、まだ親から直筆かつ封書の「手紙」が来たけれど、今では同じ親からの便りすらメールかLINEだ。便利なものにはかなわない。<br /><br /> そんな21世紀に生まれた息子。手紙のことは幼稚園で学んだのだろう。母の日にはママに、<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/12/blog-post_11.html">クリスマスにはサンタさんに</a>、「おてがみ」を書く子どもたち。何のために? それは、何かを伝えるために。<br /> 少し前までの息子は、手紙といってもせいぜい自分と相手の名前、あとはちょろっと絵を描いておしまい。「ほら、『じ』をかいたよ!」と嬉しそうに言うので見てみると、ミミズのような線がそれっぽくウネウネ。そんな調子だった。<br /> ところが最近、様子が変わってきた。手紙に「内容」が備わってきたのだ。「誰かに何かを伝える」ために、慣れない文字を必死で綴る息子、五歳半。早いか遅いか、それは知らない(涙)。<br /><br /> それにしても「ひらがな」というのは本当に難しいのだと、苦戦する息子を見るにつけ、改めて実感する。息子は特に鏡文字が顕著で、「し」「う」「と」「ら」などが左右ひっくり返ってしまう。ある意味、器用というか。私にはとても真似できない。<br /> こんなにやる気があるのならと、「ひらがな練習帳」でも探そうと街へ出た私。中身をパラパラめくり、これくらいがちょうど良いのでは、と選んだ冊子の表紙には「対象年齢 4さい」。……う、うう。そして隣には「ひらがなだいすき 3さい」。そ、そうですか。ついでに横の「大人の美文字練習帳」でも買っとこうかな、は、ははは(←動揺してる)。<br /><br /> 母の迎えが少しでも遅れると、泣いてしまうことが多かった息子。それは年長さんになっても相変わらずで、息子はよく泣き顔のまま、担任の先生から「泣かないように頑張ろうね」と励まされていた。<br /> 「○○せんせい」で始まる手紙を私が見つけたのは、夏休みに入ってからだった。「もーお なかないよおになりました いろいろおしえてくれて ありがとう」。字は間違っているが、「伝えたいこと」はよくわかる。息子に尋ねると、「じぶんでかいたの」と恥ずかしそうに笑った。「ハートマークもつけたよ」。私は少し感動して言った。「幼稚園が始まったら、先生に渡さなきゃね」。「うん!」。<br /> 8月後半の夏期保育が始まった。手紙はまだ机の上にある。どうやら、すっかり忘れているらしい。ま、それはそれで仕方ない。しかし本当に息子は「なかないよおに」なったのか。勝負はまだこれからである(新学期はけっこう鬼門……)。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiXfVgU0L7zQ-kpxPgq9cjUNgGh9Guaelq8aScD1yWdKR8znmLlIVwzO3KQbC2m8bQmSnL0wQV1tR75qJWpemonvJ-UNtR4KrXCPngR29MvKBFYPhThyvQZesi4Y8JKQaHAVFy1BErkPuw/s1600/20150826.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiXfVgU0L7zQ-kpxPgq9cjUNgGh9Guaelq8aScD1yWdKR8znmLlIVwzO3KQbC2m8bQmSnL0wQV1tR75qJWpemonvJ-UNtR4KrXCPngR29MvKBFYPhThyvQZesi4Y8JKQaHAVFy1BErkPuw/s320/20150826.jpg" width="232" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-864235367189398312015-08-05T12:01:00.000+09:002015-08-05T12:01:57.370+09:00真夏の風物詩 街に親子連れが増える夏休み。「ギャン泣きでパニック状態の子ども」と「そんな子の手を引きずり歩くママさん」という心温まる組み合わせ(!)に遭遇する率も、心なしか上昇中の今日この頃。いやお疲れ様です。暑いですね毎日。子どもって何であんなに熱いんでしょうね(えーい近寄るな)……。<br /><br /> スーパーのフロア中に響き渡るギャン泣き声と、苛立たしげな母親の声。私と一緒にいた若い女性は「うわっ、大変そう……」と目を見開いて言った。まだ見ぬ子育てのハードさを感じたのであろう。<br /> しかし私は「え? ああ……」と生返事をしただけだった。実は、ほとんど耳に入っていなかったのだ。同行の女性が驚くほど大音量の泣き声が。<br /><br /> 母親というのは子の泣き声というものに、どうやら慣れてしまうらしい。子育て以前と比べれば、子どもの泣き声全般への耐性は明らかについたと思う。<br /> 他人が見たら凄まじい泣き声でも、母親からすれば多くの場合、たいしたことはない。転んで泣いても<a href="http://www.kinocoookubo.com/2014/02/blog-post_4.html">泣き声でケガの有無や程度は分かる</a>し、ワガママかパニックか、とにかく「泣く子」には嫌でも慣れるので、すっかり度胸が突いてしまう。それでも叱り飛ばすのは、半分以上が世間体だったり。<br /> そんな親子を見ると、私の頬には反射的に微笑みが浮かぶ。そして、かつて<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/07/blog-post_24.html">ギャン泣き息子とともに周囲の苦笑いを浴び続けた</a>時代に体得した「温かな無関心」でもって通り過ぎる。世間体を気にするママさんに、少しでも世間を感じさせずに済むように。<br /><br /> <a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/07/blog-post_24.html">泣きわめく子を連れて商店街を練り歩く日々</a>(←しつこくてすいません)をくぐり抜けた身には、子の泣き声なんて真夏の蝉の声のよう。ミーンミーン。敢えて気にすればうるさいが、気にしなければそれもまた、自然界を構成する音のひとつに過ぎない。<br /> とはいえ確かに、子どもは(泣き声に限らず)うるさい。「静かにしなさい!」と叱られて育つのも、それはそれでとても健全な気がするので、今日も家でテンション高めな息子を「うるさい!」と元気に叱り飛ばすハハである(ああ夏休み……)。<br /><br /> 外でのパニック泣きはさすがに減ったが、今でも思わぬタイミングで泣き出す息子。「何で泣くの!?」と思わず尋ねるハハへの答えは、最近はいつも同じだ。「ママが怒ったから泣いてるの!!」。<br /> 確かに、悪さをする→ママが怒る→泣く、というコンボはあって、五歳児には中々の理屈だが、悪さをしたら怒るのはママの仕事なのだよベイビー。食って寝て遊ぶのが君の仕事なようにね。何かが上手くできなくて泣く→「そんなことで泣く!?」とママが呆れる→さらに泣く、というコンボもあるな。あとママが暑さのあまり機嫌悪い→子どもに八つ当たり→泣く、とか……いや夏のせいだなきっと……。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjD_e7tRdCVqCNO-ie-E2Vu0bim-ny6HJpwFc1bbuS0oaoFp3jkpzxWvRIsdQptE49ek_5b1q4p87S65g5DpE_Pa50Ikn-5YA0Tqpg-LdFfZVEc9qNaragWlNfJH7fkyzsD-JxhPObIZCu3/s1600/20150805.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjD_e7tRdCVqCNO-ie-E2Vu0bim-ny6HJpwFc1bbuS0oaoFp3jkpzxWvRIsdQptE49ek_5b1q4p87S65g5DpE_Pa50Ikn-5YA0Tqpg-LdFfZVEc9qNaragWlNfJH7fkyzsD-JxhPObIZCu3/s320/20150805.jpg" width="247" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-69045012202838137722015-07-29T19:24:00.000+09:002015-07-29T19:24:07.326+09:00ぼくが目立つ日 初めて人前に出たのは、六歳の時のピアノ発表会だった。素敵なドレスを着せてもらいお姫様気分。演奏が終わり、舞台袖へ戻ろうとすると、先生たちの慌てた様子が目に入った。「あっち、あっち!」。<br /> 戻る方向を間違えた。そう悟った私は、すでにほぼ舞台袖へ到着していたにも関わらず、慌てて回れ右をすると舞台の上を逆方向へ駆け出した。<br /> 観客は驚きつつも、少女のミスを微笑ましく思っただろう。しかし息せき切って逆側の舞台袖へ飛び込んだ私は、すっかり半泣きであった。終了後に買ってもらったアイスをドレスに落としてしまい、母親が苦い顔をしたことまで鮮明に覚えている。<br /><br /> 小学生になって、地元の夏祭りのステージに友人と三人で出ることになった。かなりの規模のお祭りで、事前のオーディションを突破しての出場である。<br /> 当日のリハーサル。大人に交じって不安げだった私たちに声をかけてくれたのが、同じ出演者だった14歳の女の子だった。演目は松田聖子『夏の扉』。<br /> 彼女が歌い出す。私は息をのんだ。他のカラオケ自慢の出演者たちとは次元が違う。人の心を掴む伸びやかな声、醸し出す華やかな空気。世へ出る人というのはきっとこうなんだと、子ども心に痛感した。<br /> 「じゃ、またね」と祭りの夜に別れて以来、彼女には会っていない。優しいお姉さんだったから、きっと素敵な女性になっているだろうな、と思う。<br /><br /> 中学生のとき、某女性アイドルのイベントを見た。地元スーパーの屋上とはいえ、テレビの中のスターである。レコード購入で貰える握手券を手に、私は列に並んだ。こうした光景は今も昔も変わらない。<br /> 初めて間近で見たアイドルは、恐ろしく濃いメイクで、戸惑う私の手を取り、胸元でぎゅっと握った。私は、握手の作法なぞ知らない。自分と同じ年頃なのに、自分とは全く異質の人生を歩む少女。<br /> たった一人で舞台を回す彼女の姿に、横にいた母は「若いのに立派ねえ」と感心しきりだった。彼女は今もアイドルだ。離婚はしてしまったけれど。<br /><br /> 音楽活動を始めてからは、人前へ出る機会も増えた。個人的には人前に出るのは、嫌いではないが得意でもない。人前で輝く人たちを、数多く見てきた。私には裏方のほうが、性に合うらしい。<br /> 大勢の前で「はじめのことば」を述べるという、息子の初の大役に、自分でも驚くほど緊張した私は、無事に役目を全うした息子のビデオを何度も観てはほくそ笑む、絵に描いたような親バカになった。<br /> 本人曰く「ぼくが目立つ日」。目立つと嬉しいタイプらしい。初めての人前体験が、舞台を泣きながら往復した私のようなトラウマにならなくて本当に良かった(ま、それはそれで、いい思い出)。そして、こんなことで親とはド緊張するのだと教えてくれてありがとう。いや足が震えたよ……。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEim_1rl1oa9LGpcKm4EeAqX1r_gWkxn-QDT6EjxhCnqp78YpxQu0d-UOz9MsT1ZwYooPO2eqSnyvhvOeOBxu_zOuUIpGiKt-M8DV3yk1jgWyv6IPJ7FYUR6ePyP5gc-T2hurl1hZJK5yB7s/s1600/20150729-4.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEim_1rl1oa9LGpcKm4EeAqX1r_gWkxn-QDT6EjxhCnqp78YpxQu0d-UOz9MsT1ZwYooPO2eqSnyvhvOeOBxu_zOuUIpGiKt-M8DV3yk1jgWyv6IPJ7FYUR6ePyP5gc-T2hurl1hZJK5yB7s/s320/20150729-4.jpg" width="247" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-23938666703068812862015-07-15T17:42:00.000+09:002015-07-15T17:42:02.960+09:00スットコ鳥の行方 人気映画『トイ・ストーリー』シリーズを、すでに園で鑑賞済みの息子の解説付きで初鑑賞。手に汗握るピンチに「大丈夫。助かるから!」と得意げに言い放つ五歳児に「ネタバレ」の文字はない(涙)。<br /> ま、いいけどね。私も大概、心臓弱いんで。スリルは要らないの、もうこれ以上人生に(切実)。<br /><br /> さて、トイ・ストーリー。やはり親となった身としては、我が家のオモチャたちに思いを馳せてしまう。我が家の「ウッディ」は、『スージー・ズー』に出てくる、お腹にハートのついたクマ「ブーフ」のぬいぐるみ。ただし名前は「くまさん」。<br /> 息子が一歳半のとき、飛行機内でのグズリ対策に空港で購入したものだが、当時はここまでお気に入りになるとは思いもしなかった。今も夜は必ず一緒に寝るし、旅行にも最優先で連れて行く大親友だ。<br /> 息子が語るところによれば、くまさんは「ぼくに会うために」空港の売店に並んでいたという。ほほう、カワイイことを言うではないか。そして空港へ来る前の「くまさん」は、沖縄(!)にいたらしい。……なぜ沖縄。沖縄にクマはおらんがな(たぶん「空港」「飛行機」からの連想……)。<br /><br /> この「くまさん」を筆頭に、「かえるくん」「わんちゃん」「くまさん(別のクマ)」の計四匹が、現在の息子のお気に入りだ。毎晩、枕元に並べた彼らと共に、夢の世界へ遊びに行く。夜中に泣いて起き出した息子に「夢の中でくまさんたちが待ってるよ」と言うと、素直に頷いて目を閉じる。<br /> このほか、寝る時間になると現れる(ただし目には見えない)「スットコ鳥」と「ヘンテコ鳥」という仲間(?)もいる。どうやらパパが寝かしつけの際にでっちあげた架空のキャラらしく、一体何のトリだかハハにはサッパリ意味不明(トホホ)なのだが、なんと登場時のテーマソング(!?)まである。時々、昼日中にも現れるらしい。<br /> <a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/09/blog-post_17.html">アザラシが空を飛んでも</a>許容範囲な私だが、さすがに息子から道で唐突に「スットコ鳥がねえ……」と話しかけられるのは結構スリリングである(……いや大丈夫。ついて行くぜ!)。<br /><br /> 息子と楽しい日々を送る「くまさん」たちが数年後、映画のようなハッピーエンドを迎える保証はどこにもない。「スットコ鳥」に至っては、記憶に残るかすら怪しい。私自身、幼い頃に遊んだぬいぐるみのことは、もう覚えていない。息子の腕の中の「くまさん」は幸せそうで、何だか胸が詰まる。<br /> 息子の髪は家でパパが切る。床に散乱した髪の始末が大変で、「店へ行けばいいのに」と呆れる私に相方は言った。「もうしばらく、自分で切りたい」。<br /> 親が髪を切れるのも、幼いうちだけ。親もオモチャたちも、期限付きの幸せを味わっている。目の前の五歳児を眺めながら、そんなことを考える。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEggschHt0QVmJMowpFVaev4505BjD-b_VT8ibGfZ2AKy2_1AwORbJiUXmgIFta9PS5N0EQgMQBVMuaMHELgwvAQvM_WxkcIm_xB5ags7v6RoWLcZ4lDmp5qFuKFH1DN0n-X19_rVWIE_QEY/s1600/20150715.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEggschHt0QVmJMowpFVaev4505BjD-b_VT8ibGfZ2AKy2_1AwORbJiUXmgIFta9PS5N0EQgMQBVMuaMHELgwvAQvM_WxkcIm_xB5ags7v6RoWLcZ4lDmp5qFuKFH1DN0n-X19_rVWIE_QEY/s320/20150715.jpg" width="232" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-59504179523954792592015-06-29T15:25:00.000+09:002015-06-29T15:25:55.613+09:00成長の連鎖 園へのお迎え時。少しゆったりした服を着ていると、教室から出てきた女の子たちに聞かれることがある。「ねえねえ、おなかに赤ちゃんいるの?」<br /><br /> 彼女たちの目は期待でキラキラだ。だから私は、少し悲しそうな顔で答える。「ざーんねん。いないんだ」。「ふーん」。(ホントはいるんじゃないの?)なんて顔をしながら、別の事柄に興味を移していく女児たち。常に「お姉さんぶりたい」女の子は、自分より小さい子や赤ちゃんが大好きだ。<br /> 余談だが時々「これ自腹だから。あはは」なんて答えるママもいて、気持ちはわかるのだがポカンとする園児を見るに、その自虐ギャグはたぶん通じていない。「冗談を冗談として受け止める」というのは結構、難しいらしく、下手すると「自腹ってなに?」と直球を食らって傷口に塩を塗る羽目になる(涙)。いや、子どもとの会話は気が抜けんよ……。<br /><br /> 「一人目は長かったけど、二人目はあっという間に大きくなる」。複数のママさんから、そんなふうに聞いた。いつ立つか、いつ歩くか、いつ話すかと待ち構えていた一人目に対して、二人目は気がつくと立ち、歩き、ペラペラと話し始める。<br /> 上の子の入園時、まだ足取りもおぼつかない乳児だった弟妹が、年少組に入ってお兄ちゃん、お姉ちゃんの後を追いかけ始める。お迎え時はいつも下の子を抱っこヒモで抱え、常にマスク姿だったママさんが、歩くようになった下の子の手を引いて、にこやかに現れる。ゆったりと結わえた髪に薄いメイク。解き放たれた美しさに、思わずハッとする。<br /> 歩くようになった下の子ちゃんは、ベビーカーの中ですやすや眠る、別の園児の「下の子ちゃん」に興味津々で近づいていく。あっという間に数ヶ月がたち、ベビーカーの赤ちゃんも歩き出す。つい最近まで抱っこヒモの中にいた「下の子ちゃん」が、すっかり姉目線で自分より小さな存在を見守っている。<br /><br /> 午後の園庭で繰り広げられる成長の連鎖。たった三年で感動している私だが、より長いスパンを見守る先生方は、そして園庭の木々は、何を思っているのだろう。時々、そんな思いに囚われる。<br /> かように下の子は他人に揉まれて育つ傾向があるから、我が子の「コミュ力」(!)に悩むママたちからすれば環境の違いが気になるけれど、でもそれ以上に本人の資質が大きいのでは、と感じることも多い。社交的で活発な長男長女や一人っ子が、私でさえ何人も思い浮かぶ。<br /> 思い込みや偏見ではなくフラットな目で。そう自分に言い聞かせる、一人目で手一杯の母。まだ先は長いしね。なんつうか、大きくなっちゃったなあ、というのはあるなあ。ぷくぷく赤ちゃん時代の息子を懐かしく、少し寂しく思い出す。でも前を向かなきゃね。今さら乳児の相手はムリ(体力的に)。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjd8tkXdRO4xsq_nWZsda2uBCGue9K5w0cqVm_rSVHbVJF9zo0GAbR-DydNYEytr42NPgSdy7BLkSng5HhU8wpy7zrFDoP6zxeeCtHc2E6_dq0tAOTzPBFQnGpqIeLQEIyqWb07n3ZXqqnx/s1600/20150629.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjd8tkXdRO4xsq_nWZsda2uBCGue9K5w0cqVm_rSVHbVJF9zo0GAbR-DydNYEytr42NPgSdy7BLkSng5HhU8wpy7zrFDoP6zxeeCtHc2E6_dq0tAOTzPBFQnGpqIeLQEIyqWb07n3ZXqqnx/s320/20150629.jpg" width="233" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-51516983980602077332015-06-11T11:55:00.000+09:002015-06-11T11:55:05.640+09:00SING!! 図書館で息子が見つけてきた『セサミストリート』のCD。おそらく番組で使われた英語の歌が入っているのだろう、と深く考えずにいた私は、スピーカーから流れてきた歌を聴いて腰を抜かした。<br /> え、日本語!? ……そういえば何年か前に、日本語版が放映されていたような。当時は子どももいなかったので、残念ながら観た記憶はないけど。<br /><br /> 日本語にも驚いたが、もっと驚いたのは彼らの「声」だった。当然、日本の声優さんが歌っているのだが、あのエルモが、クッキーモンスターが、まんま日本語で歌っているとしか思えないのだ。……いやもう何というか、プロって凄い。<br /> 英語版では、たとえ言葉が分からずとも(クッキーを貪り食う)行動だけで十分に変で楽しいクッキーモンスターが、日本語で「クッキー、たぁべた〜い!!」と絶叫するわけで、息子はもう大喜びである。<br /> 収録曲は日本独自の楽曲が中心だが、中にはおなじみの歌もある。セサミの挿入歌として有名な『SING』も、ここでは日本語だ。原曲はカーペンターズ。かつてNHK『みんなのうた』でも流れていたそうだから、懐かしい方もいらっしゃるだろう。<br /><br /> シング、歌おう、幸せが来るように。そんな歌詞を聴きながら、出産直後、<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/07/blog-post_5.html">睡眠不足で朦朧としながら歌っていた</a>頃を思い出す。辛いときは、歌うに限る。誰に聴かせるわけでもなく、ただ自分のために。<br /> 大きな声を出し、恥ずかしがらず、と歌は続く。同じ言葉を最近聞いたなあ、と記憶を辿る。園の有志のママさんコーラス。「ぜひご一緒に。恥ずかしいことはないですよ」という発起人の呼びかけに、準備した椅子が全く足りないほどの人数が集まった。<br /> 試しに全員で歌ったら、先生も驚くほどの声量。「恥ずかしがる」なんて空気は微塵もない。今どきのママさんはカラオケで慣れてるし、コーラスの経験者も結構いる。恥ずかしい人は最初から来ないし。<br /> 歌うときの姿勢、息つぎ、鼻濁音。先生が基本をレクチャーしていく。自分の声が、空気を震わせて響く。懐かしい感覚が嬉しくて、自然と声が伸びる。<br /><br /> 子どもは歌が好きだ。息子も耳コピで<a href="http://www.kinocoookubo.com/2013/07/blog-post_11.html">意味不明な日本語を歌っていた</a>時代もあったが、今では歌詞もメロディもかなり忠実に再現する。符割りの複雑な最近のJポップもけっこう上手に歌う。家で私が作っていた歌を、その日のうちに歌い出すこともある。<br /> プロの音楽家による親子コンサート。一緒に歌う場面なのに、息子は蚊の鳴くような声だ。家ではガンガン歌うのに、外へ出ると萎縮してしまう。<br /> そんな息子を励ますように、私は声を張り上げる。歌おう、幸せが来るように。辛いことを忘れるため、そんな理由で歌う日が、君にもきっといつか来る。大丈夫、ママがついてる。おともだちもいる。一緒に歌おうよ。恥ずかしがらず、大きな声で。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjT6sESWj2meGfliGtks41OJpv-ujgG3zQk5omk7zQuX7RNuaDQvIQzAOlvz_0WgrsP_zFAcv_xnqwWNCjrQqvOYcLjs2Y4CN1nj6YZiI1uE-GtZL4gOS1qRZ6_H_PRb7rJeOxxBCqHeZDx/s1600/20150611-2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjT6sESWj2meGfliGtks41OJpv-ujgG3zQk5omk7zQuX7RNuaDQvIQzAOlvz_0WgrsP_zFAcv_xnqwWNCjrQqvOYcLjs2Y4CN1nj6YZiI1uE-GtZL4gOS1qRZ6_H_PRb7rJeOxxBCqHeZDx/s320/20150611-2.jpg" width="233" align="top" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000FGG2Z6/ref=as_li_qf_sp_asin_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000FGG2Z6&linkCode=as2&tag=kumoa12-22"><img border="0" src="http://ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B000FGG2Z6&Format=_SL110_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=kumoa12-22" ></a><img src="http://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kumoa12-22&l=as2&o=9&a=B000FGG2Z6" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-836266268134400142015-05-27T17:41:00.000+09:002015-05-27T17:41:50.487+09:00そこに愛はあるか 弁当が母の愛なのか、私には分からない。父が作れば父の愛、祖母が作れば祖母の愛? 愛にはいろんな形があって、その一形態ではある気がする。<br /> 弁当に限らず「手作りが母の愛」というのは、現代では反発を呼びやすい表現だ。私は時々、子どもの服を作る。服作りに関しては私の場合、答えは明快だ。それは母の愛ではなく、母の「趣味」である。<br /><br /> だって、そうではないか。今の時代、作らずとも服は買える。しかも、安い。モノだって悪くない。どこの街にもあるファストファッションの店舗には、喫茶店のコーヒー代よりも安い服が並んでいる。<br /> リサイクルショップやフリマ、ネットオークションだってある。多彩なデザインの子ども服が、リーズナブルに手に入る国ニッポン。そんな幸福な国にいながら、金と手間をかけて服を作る。誰もが近所で買えるもの、例えば「紙」を、わざわざ作る。買わずに手漉きで作るとしたら、それは「趣味」だ。<br /> 手間ヒマかけるから「愛」なのかもしれない。しかし子どもが「絵を描く紙が欲しい」と言ったとき、「待って、いま紙漉きの材料仕入れてくるから」……これでは、さすがに愛とは呼べまい。<br /><br /> もちろん、これはあくまで私の場合であって、愛情の発露として服作りをされる方も当然いらっしゃるだろう。しかし私は、いくら胸に手を当てて考えてみても、「趣味」という答えしか出てこないのだ。<br /> 二年前に作ったTシャツはもう小さいが、息子は未だ新しいTシャツを買ってもらえない。何故なら母が「作りたい」から。「今は忙しくて作れないけど、そのうち作りたい」からと、丈の短いTシャツを今日も着る息子。早く買ってやれ(怒)。<br /><br /> 所詮は趣味なので、質の保証はない。自分のウデも顧みず「これ作りたい!」と手を出した結果、うまくいかずに不機嫌になる母。「ねえママ……」「今忙しいから!」。追いやられて悲しそうな顔の息子。どう見ても、愛とはほど遠い光景である。<br /> それでも「ママそれ、ぼくの服?」と嬉しそうに訊く息子。くじけそうになる深夜、リッパーで糸を解きながら、息子の喜ぶ顔を思い浮かべる。もうひと踏ん張り、とミシンに向かう。愛もやっぱり、少しはある気がする。あるってことにしたい(願)。<br /><br /> 「毎朝、弁当作るなんて偉い」と言われると複雑だ。自ら子を持つ選択をして、選んだ園がお弁当だったから、その責任として作っている。愛というより責任だ。でも責任もまた愛なのだろう、とも思う。<br /> あるとき気が向いて、ペンギン兄弟のおにぎりを作ってみた。人生初のキャラ弁は頭を抱えたくなる出来(涙)だったが、息子の喜びようは凄まじく、慌てて「時間があるときだけだよ」と念を押す。<br /> 趣味は人生を豊かにする。子育てにおいても同様だ。けれど趣味である以上、押し付けたり無理強いすることは不可能だ。私にはキャラ弁の「趣味」はないので、そこは息子に諦めていただくしかない。……「能力」がないとも言うけど。<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiy46SXVRgi_ggJsROLqUT69J2f6kPTBzNQQCkhaILuAV0uLTR5Xl4UEZoforB5Fhgp3JvqdVHq_prflzCcgRkZC-ui1hefMYLK2Eb8ZmoQo4gCJia9nkayMoDCTBFcS0-sHKov5YMw6uP_/s1600/20150527-2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiy46SXVRgi_ggJsROLqUT69J2f6kPTBzNQQCkhaILuAV0uLTR5Xl4UEZoforB5Fhgp3JvqdVHq_prflzCcgRkZC-ui1hefMYLK2Eb8ZmoQo4gCJia9nkayMoDCTBFcS0-sHKov5YMw6uP_/s320/20150527-2.jpg" width="131" align="top" /></a>
大久保きのこhttp://www.blogger.com/profile/00225022520031284217noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4523014785225175092.post-52910787910208496762015-05-11T12:12:00.000+09:002015-05-11T12:12:28.471+09:00君は110センチ君は一一〇センチ<br />中途半端な一一〇センチ<br />まだまだ幼児 いつかは少年?<br />はざまで揺れる曖昧な季節<br /><br />何でもよく食べる良い子です<br />食べ過ぎて顔がまんまるです<br />服のサイズは一一〇センチ<br />本当はもう少しちっちゃいです<br /><br />君は一一〇センチ<br />公称サイズ一一〇センチ<br />ベビーじゃなくて キッズでもない<br />そんなセンチメンタルな時間<br /><br />生まれたときは四十八センチ<br />少し小さめの君でした<br />棒のような足を折り畳み<br />片手でひょいと抱えてました<br /><br />三つ四つ年を重ね<br />五つ六つロウソクを消して<br />君の瞳に宿る輝きが<br />ずんずん大きくなった<br /><br />上ばっかり向いて 首が痛いなら<br />前だけを向いて走ってゆけ<br />椅子によじ上れば ママよりノッポ?<br />でもまだ届かない世界があるね<br /><br />君は一一〇センチ<br />そこそこイケてる一一〇センチ<br />ママを見失って ギャーと泣くのも<br />なんとかギリギリ似合うお年頃<br /><br />君は一一〇センチ<br />かろうじてまだ一一〇センチ<br />背伸びをしたら お腹がちらり<br />聞こえてきた一二〇の足音<br /><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibAocwsNavC3FB-oh7ngTK8PHchbFZP62wxGwnd2-DvwROahM5CbYm545buu8S1sR4K6qdqqAf-5ONrOpWKRG4bRmmCHF_ZWho7piNcN2o9REHn5gPnB0u4TQsHZXIUnjKgR3X9nAtFOoB/s1600/20150511-3.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="175" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibAocwsNavC3FB-oh7ngTK8PHchbFZP62wxGwnd2-DvwROahM5CbYm545buu8S1sR4K6qdqqAf-5ONrOpWKRG4bRmmCHF_ZWho7piNcN2o9REHn5gPnB0u4TQsHZXIUnjKgR3X9nAtFOoB/s320/20150511-3.jpg" width="238" align="top" /></a>
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